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戦力外通告ーー「野球をやらなくていい生活」の本当の辛さ

文春野球コラム ペナントレース2018

2018/09/27

 あれだけ暑かった夏も、気がつけば一気に秋である。プロ野球は佳境に入り、熾烈な3位争いを経てCS、日本シリーズへと一気に流れていく。プロ野球の醍醐味はここから始まると言っていい。いよいよ本格的に盛り上がる時期にきた。

 そして、盛り上がりの裏でこの時期に活発になるのが、「引退」である。これまでにすでに、村田修一、杉内俊哉、新井貴浩、後藤武敏、加賀繁、脇谷亮太、岡田幸文、大隣憲司、浅尾拓也、松井稼頭央、荒木雅博、岩瀬仁紀といった、プロ野球の一時代を築いてきた選手たちが引退を表明した。時代は流れている。急に寒さを増した天気と相まって、寂しさを増幅させる。

 寒さを感じるのは、暑い日々を過ごしてきたからである。今日も暑い、暑いものだ、と思って家を出ると、思ったよりも肌寒い。実際はそこまで寒いわけではないのだが、思い込みによるギャップが、秋になったことをより実感させる。そこに当たり前に「ある」と思っていたものがなくなる時、なくなるということを知った時、妙にセンチメンタルな気分になる。それが、秋だ。空の高い感じ、冷たい風に乗って不意に香る金木犀の香りを嗅ぐたびに思い出す。そう、秋は戦力外通告の季節でもある。もうすぐ、10月1日がやってくる。

 2008年にNPBとプロ野球選手会の取り決めによって、第1次戦力外通告の日付が10月1日と決まった。もともと、戦力外通告を受けたり、自由契約になったりする時期は球団ごとに違っていた。それは、早々に優勝争いから離脱したチームと、日本シリーズを最後まで戦ったチームでは、選手の起用法、来季の構想などを考える時間軸が違うためである。早いタイミングで戦力外通告を言い渡された選手は、他球団との契約を得るために動く時間が多く残されているのに対し、ギリギリになって戦力外通告を言い渡された選手にはその時間が少ない。この機会の差をなくすためにも、戦力外通告は10月1日に全球団で行う、という取り決めがある。

トライアウトを受ける選手たち ©文藝春秋

戦力外通告を受けてから

 あれは6年前の2012年。前日の9月30日は確か2軍の最終戦だった。10月1日は休養日で、10月2日から秋季練習が始まり、間もなくして宮崎に移動し、フェニックスリーグが始まるというスケジュールだった。休養日のため家にいた。午前10時30分頃だったと記憶している。普段電話がかかってくるはずのない球団職員から電話が鳴った。直感で、「クビだな」とわかった。というより、前日から少し準備はしていた。詳細は告げられなかったが、とにかく明日はスーツで来てくれとのことだった。

 選手はそもそも入団する時に、「結果が出なかったら来年はいないかもしれない」ということを承知で入ってきている。「非情な通告」と言われるが、選手からすると、いつ通告されてもそれを受け入れる準備はどこかでできているものだ。球団側、選手側双方から見ても、「非情」という世界はない。少なくとも私は「非情」だと感じたことは一度もない。それぞれに事情があって、戦力外通告は交わされるのだ。

 だからと言って、戦力外通告を受けることが全く辛くないかというと、それは違う。非常に辛い。しかしそれは、思っていたのと違う辛さとなってやってくる。

 戦力外通告を受け、トライアウトに向けて準備をする期間はいい。それは、まだ希望があるからという理由ではなく、日常がまだ野球中心だからだ。トライアウトを経て他球団と再契約できる確率が限りなくゼロに近いことなど、わかっている。それでも、トライアウトを受けると決めればそこまで練習をすることができる。その日々は、これまでの日常とあまり変わらない。トライアウトが終わると、他球団から声がかかるのをひたすら待つ。私の場合は、11月いっぱいまで声がかからなかったら、そこで野球をやめることを決めていた。だからこそ、トライアウトはある種の引退試合のような気持ちだった。幸いなことに、野球に未練を残すことなくやり切れた。だからこそ、やめるということ自体には前向きだった。