本稿を書くきっかけとなったのはある飲み会だった。

 私は仕事仲間の映像プロデューサーと、在京キー局の社員である20年来の友人と3人で飲んでいた。仕事柄3人ともドキュメンタリーが好きで、最近観たドキュメンタリー番組や映画の話で盛り上がった。最初は楽しく飲んでいたのだが、不穏な空気が流れだしたのは、東海テレビが制作した「さよならテレビ」の話題になってからだった。

「あの番組はありえない」「放送したことには大きな意味がある」

 キー局の社員が、「あの番組はありえない」と批判を始めた。それもかなり強い口調で、全否定と言ってもいい論調だった。彼は話しだしたら番組を思い出して「また怒りが沸いてきた」とまで言い出した。私が「あの番組はすごい作品だった。放送したことには大きな意味がある」と反論すると、火に油を注いだようで、さらに強い言葉で言い返してきた。私も腹が立ち、冷静な議論ではなく、口ゲンカのような状態になってしまった。酒もかなり入っていたので、見解の相違の詳細はよく覚えていない。実はこの友人とは、ドキュメンタリーの趣味は合い、9割方の作品については好みが一致していた。それなのに、たった1本の番組をめぐる評価が、20年来の友情にヒビを入らせるほどの衝撃。それこそが「さよならテレビ」という番組の本質を表しているのだと思う。つまり観る者の立場やいまいる場所、もっと言えば“テレビ観”によって、感想が真っ二つに分かれるのだ。

ADVERTISEMENT

東海テレビ報道部のデスク陣と「さよならテレビ」のクルー ©︎東海テレビ

「さよならテレビ」が裏ビデオのように出回っている

「さよならテレビ」は、2018年9月2日に東海地区のみで放送された90分番組だ。東京では観られなかった番組なのに、放送直後から業界の話題となり、テレビマンたちの間ではDVDなどで裏ビデオのように出回っている。内容は「テレビの現状はどうなっているのか」というテーマで、東海テレビのディレクターが、同局の報道部を長期取材したドキュメンタリーだ。そのディレクターとは、話題となった映画「ヤクザと憲法」を監督した土方宏史氏。プロデューサーは、東海テレビのドキュメンタリー映画のほぼすべてを取り仕切る阿武野勝彦氏だ。

 取材が始まるやいなや、普段は他者にカメラを向けることを仕事にしている報道部員たちが、自分自身にカメラを向けられることにとまどいを覚え、反発する。土方ディレクターと部員たちは話し合い、「マイクは机に置かない」「デスク会は撮影許可を得る」などの取り決めをしながら、取材は続いていく。

モニターに映る主人公の一人のアナウンサー ©︎東海テレビ

 期間はおよそ1年半で、3人のテレビマンがメインの被写体となっている。そのうちの一人は、入社16年目のアナウンサーで、彼が夕方のニュース番組のキャスターに抜擢されるシーンから始まる。報道部長から「お前を売り出したい」と言われ、局の正面玄関の脇には、このキャスターの顔写真がデカデカと載ったポスターが掲げられる。

 だが実はこのアナウンサー、7年前に起きた同局のニュース番組における大きな不祥事にトラウマを持っていた。岩手県産のお米を「セシウムさん」と表現したテロップが流れ、あまりに不謹慎だと世間の批判を浴び、番組が打ち切りになったのだ。このテロップを流したのはもちろん彼の責任ではないのだが、たまたまその時に彼がMCをしていたために、放送中に謝罪を強いられ、ネットでは「おまえが死ねばいい」とまで叩かれた。以来、キャスターであるにも関わらず、自分の胸の内を素直にさらけ出すことにためらいを覚えている。