東映任侠映画の「異業」——日本近現代史の陰画を描いた235本

仁義なきヤクザ映画史 第7回

エンタメ 映画
「オレの映画のどっかにおふくろと炊きたてのめしを入れてくれよ」――高倉健はプロデューサーに注文した

極彩色でヤクザの世界を

 1963年から72年まで、東映は合計235本の「任侠映画」を製作した。20~30年代のアメリカではワーナー・ブラザースを中心にギャング映画が量産され、韓国にも連綿とヤクザ映画というジャンルはあるが、ひとつの国のひとつの映画会社が10年もの長きにわたって、反社会的勢力であるヤクザが主人公の映画をこれほどまでに量産し、それが大衆に支持され続けたことは、世界の映画史と大衆芸能史において前代未聞のことである。

 なぜこのような事態が起きたのか――。

 その発端は根岸寛一のひと言だった、と元東映社長岡田茂は語る。

 60年代前半、岡田茂は自らが企画したギャング映画路線が当たった報告をしに、東映の前身である東横映画の基礎を築いた戦前からの大プロデューサー、根岸の自宅を訪れた。〈根岸に「ところで次は何だ?」と訊かれ、不意を衝かれた岡田は「考えていない。教えてください」と頭を下げる。根岸はニヤリと笑って、次はヤクザ映画だよ、とそう言った。(中略)ヤクザ映画は時代劇の変形だ。そろそろチャンバラはダメになる、東映がむかうべきは任侠映画だよ。『人生劇場』だよ〉。そう教えたという(竹中労著『日本映画縦断2 異端の映像』)。

『人生劇場』は尾崎士郎の自伝的大河小説(52~53年にかけて「青春篇」から「望郷篇」までの7篇が、60年に「蕩子篇」が出版された)。愛知県吉良町(現・西尾市)から上京し、早稲田大学に入学した青成瓢吉の青春とその翳りを描くが、岡田茂は侠客の世界に舞台が移る「残侠篇」のみを『人生劇場 飛車角』(63年、沢島忠監督、鶴田浩二、佐久間良子主演)として映画化、これが大ヒットする。

 東映がこれを機に時代劇の製作を徐々に減らし、ヤクザ映画路線に舵を切ったのは、テレビに追われて映画産業が危機に陥っていたからだ。戦後、娯楽の王座を独占し、58年に11億人を突破した日本の映画観客数は、63年には全盛期の半分に激減した。いままで家族が揃って映画館で観た時代劇などがお茶の間で観られるようになったからだ。そこで東映はテレビではけっして見られないヤクザの世界を極彩色でスクリーンに映し出そうとした。

昭和館写真
 
新宿昭和館
©昭和興業株式会社

こりゃ、映画と違うわい

 戦前は貿易会社に勤めるかたわら神戸五島組の金庫番を担当し、そののち映画界に入ったプロデューサーの俊藤浩滋は、『人生劇場 飛車角』が大ヒットしたとき、血が騒いだ。

「飛車角にしろ吉良常にしろ、正真正銘のヤクザであり、とくに『(人生劇場―引用者註)残侠篇』は純然たるやくざの世界を描いたものだということを知っていた。そして、そうか、こういう映画をお客さんは面白がってくれるのか、と感動した。(中略)で、これがやくざなんだ、という映画を自分なりに撮りたいなあと強烈に思った」(俊藤浩滋、山根貞男共著『任侠映画伝』)。

 俊藤は『博徒』(64年、小沢茂弘監督)で、かつて自らが出会った理想の侠客像を鶴田浩二に仮託し、これまで映画が描かなかったヤクザ社会の風俗――襲名披露式や刺青(ほりもの)や賭博を見せ場にした。本職の博奕打ちを撮影所に招き、関西ヤクザの間で行なわれていた「ほんびき賭博」を克明に再現し、ラストは裸で刺青をさらけ出した鶴田浩二が馬車を駆って敵地に殴り込む『博徒』は迫力満点だった。今まで見たことがない世界が色あざやかに大画面で再現されるのを見た観客は興奮を抑えきれず、映画は大ヒットした。

 進行主任の並河正夫は京都の博徒中島会の元舎弟分だったが、試写を見て、「こりゃ、映画と違うわい、こんなん、映画じゃない」と、作りものの映画ではなくヤクザ社会のドキュメンタリーを観たように感じた(関本郁夫著『映画人烈伝(かつどうやれつでん)』、小沢茂弘インタビュー)。

 ここで、東映京都撮影所とヤクザの関わりについて、当時東映の演出助手で、のちに劇作家、評論家になる菅孝行に訊いてみたい。

  当時の撮影所には、並河正夫さんのようなかつての渡世から足を洗った製作主任もいたし、大道具には在日韓国・朝鮮人の元日本チャンピオンのボクサーもいて、四国や九州など全国から流れてきた人たちの方言がミックスした独特の京都弁が飛びかっていました。

 撮影所は、ロケーションのときにかならず撮影にクレームをつけにくる地回り(チンピラ)と話をつけるために現役のヤクザかもしれない嘱託を雇っていました。その“闇の秩序”の元締めが中島会から来た松本元蔵さんと並河さんでした。労働争議の際、第一組合員が岡田茂撮影所長を、夜を徹して部屋に閉じ込めたとき、朝方、岡田さんにそっと風呂敷に包んだ縄梯子を届けて岡田さんを2階から逃がしたのが松本さん。

 私が元ヤクザの仕出しの俳優さんと現場で大喧嘩した際に、その晩、彼がドスを呑んで私の住んでいる寮まできたとき、堅気に手を出した彼をボコボコにしたのが並河さんでした。他の業界では資本家に雇われたヤクザが外から組合潰しをやりましたが、東映京都ではそんなことはなく、元渡世人も組合員でした。俊藤さんが入って来てからは、現役のヤクザが大手を振って「現場指導」と称して出入りするようになりました。

 そんな東映ヤクザ映画路線を大衆が支持したのは、これまで述べてきたように日本の大衆文化に「侠客(三尺)もの」が根付いていたからだろう。とともに、日米安保闘争後の「時代意識のようなものがある」と評論家の上野昻志は書く(『戦後再考』)。

 安保闘争後、片岡千恵蔵や市川右太衛門主演の勧善懲悪の明朗時代劇がしだいに当たらなくなった。騒然たる時代に呼応すべく、東映は工藤栄一監督で『十三人の刺客』(63年)、『大殺陣』(64年)、『十一人の侍』(67年)といった「集団抗争時代劇」を次々に作る。これらの作品では血が派手に吹き出たり、刀が肉を斬る音が生々しく強調されるなかで、政治的な抗争を背景に、暴君に対する暗殺、テロが企てられた。

 集団抗争時代劇のリアリズム志向は、この連載ですでに述べた1927年の『忠次旅日記』3部作(伊藤大輔監督)に先例があり、それは1973年から始まる『仁義なき戦い』(深作欣二監督)などの「実録ヤクザ映画」のはるかなる先駆けであったが、一方、集団抗争時代劇は批評家の評価こそ高かったものの、映像表現と物語のリアリズム志向があまりに殺伐としすぎていたため観客には支持されず、短命に終わった。

 この集団抗争時代劇と踵を接するように様式的なヤクザ映画が現われるのだが、この意味を上野昻志はこう解いている。

〈やくざ映画は、この時期の時代劇をとらえたリアリズム志向を、『やくざ』という周縁的な存在に反転させたところで生まれた反リアリズムの映画なのだ。そして、この反リアリズムという点にこそ、六十年代後半の大衆の夢がかけられていたのだ〉(上野昻志著、前掲書)

画像2
 
鶴田浩二

ピカピカ光る大衆の魂

 東映ヤクザ映画路線は、63年から本格化した映画館の「深夜興行」を追い風に、64年から警察が始めた「頂上作戦」(ヤクザ組織のトップを検挙する暴力団撲滅運動)とともに全国で拡がった「暴力団追放キャンペーン」を向かい風として始まった。深夜興行は、青少年に悪影響を与えるという各都道府県の教育委員会の反対を押し切り、当時の東映社長大川博が推進し、ヤクザ映画の観客層を広げた。

 一方、暴力団追放キャンペーンを背景に、新聞や週刊誌は良識の名のもとにヤクザ映画を「残酷」「低劣」「時代錯誤」と非難し、『博徒』封切日の大阪梅田劇場では、「映画館の前には、エプロン姿でシャモジを手にした大勢の主婦たちが『深夜映画反対』『ヤクザ映画反対』のバリケードを張っていた」という(山平重樹著『全証言 伝説のヒーローとその時代 任侠映画が青春だった』)。

 東映がヤクザ映画路線に変更したことを映画会社各社も「品格に欠ける」と非難し、その急先鋒が松竹社長の城戸四郎だった、と東映の元企画部長、渡邊達人は『私の東映三十年』(私家版)で書き記す。城戸の非難に対し、当時の東映の専務、坪井與(あたえ)が共立通信発行の「シネビ・エイジ」(66年3月1日号)に次のような反論を展開した(渡邊の前掲書による)。

〈(ヤクザ映画の)その主人公は秩序社会からはみ出した人たち、つまり我々が住んでいる束縛の世界から抜けだし、こよなく自由を求めている人たちであり、「孤独の人」「アウトローの人」である。彼等は自分自身を犠牲にしてまでも義を貫くことを信条としていて、その行動力はすばらしく健康な姿である(中略)やくざ映画にこそピカピカ光る大衆の魂をわかり易く表現することが出来るのではないか〉

「ピカピカ光る大衆の魂」という一節が何ともいい。上野昻志が語ったこととも繋がるが、ヤクザという「社会の陰画(ネガ)」のような存在に思い入れてこそ実現する大衆の夢が、衒いのない戦後的な向日性によっていかんなく表現されている。

 坪井與は満洲映画協会で理事長甘粕正彦の右腕をつとめ、戦後は東映復興の立役者となった人物である。この坪井の一文が「東映任侠映画」のいわば“背骨”(理論的支柱)となり、東映は63年以来使っていた「ヤクザ映画」を「任侠映画」とあらため、「日本芸能史におけるこの路線の正当性」を主張してゆくのだ。

 ヤクザ映画路線を始めるに当たり、東映はふたつの方向性を考えた。ひとつは、前述のヤクザの実態をリアルに描く、小沢茂弘監督による「博徒シリーズ」。もうひとつはオールスターキャストでストーリーを物語るマキノ雅弘監督による「侠客伝シリーズ」である。

 しかし、『日本侠客伝』シリーズ(64~71年)の主人公は、題名に謳われた「侠客」ではなく堅気の「稼業人」だった。高倉健が演ずる主人公は、木場の運送業や大阪港の沖仲仕や築地魚河岸の仲買人や神田の火消しや鳶職といった手に職を持った、鯔背(いなせ)な「稼業人」であり、彼は最後に共同体を守るために身を賭すのだ。主人公が堅気になったのは、シリーズ第1作『日本侠客伝』(64年、マキノ雅弘監督)の脚本家(笠原和夫、村尾昭、野上龍雄)のうちの笠原と野上が無職渡世の博奕打ちが嫌いだったからなのと、加えて笠原がこう考えていたからだ。

「日本の古い娯楽映画では、定説なんですが、手に職を持っていない主人公の場合は、長続きしない、大衆受けする為には必ず主人公は勤労者として描かなければいけないという事がある訳です」(『キネマ旬報』75年7月下旬号)

 笠原のこの洞察は日本の大衆芸能を考える上で示唆に富んでいる。そして、『日本侠客伝』シリーズの主人公が「正業(なりわい)を持つ勤労大衆」でありつつ、一歩道を踏み外せばたちまちヤクザ社会に墜ちる、ヤクザとカタギの間(あわい)の稼業人であるところに、この設定の妙味があった。

 歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』は、日本の娯楽映画を支えてきた映画人たちにとって必携の芝居だったが、3人の脚本家は『仮名手本忠臣蔵』の各段をバラし、『日本侠客伝』に組み入れた。「粂次(くめじ)」(南田洋子)と「赤電車の鉄」(長門裕之)の脇筋は「おかる」と「勘平」のくだりを参照し、主人公たちが敵にやられ、こらえにこらえた末に怒りを爆発させる流れは歌舞伎の「がまん劇」をポイントにしようと村尾昭が主張し、また十一段目の討ち入りをラストの殴り込みにした。

 また、『日本侠客伝』は当初、主演に予定していた中村錦之助が助演に回ったため、高倉健が主役に抜擢された。高倉がこの映画でブレイクした理由は、三白眼が侠客役には打ってつけだったこと(メイクアップ係が高倉の白眼がくっきり際立つように、クローズアップを撮る時、高倉の目にブルーの目薬を差した)。「昭和初期の顔」(高橋睦郎による表現)が舞台である明治・大正期の風景に似合ったこと。「和事師」(色恋に長けた優男)の中村錦之助が「辛抱立役」(主役級だが、控えめな受けの芝居に終始する役)の高倉を脇から引き立てたこと。錦之助の歌舞伎の伝統を引いた様式的な所作とは正反対の、バットをびゅんびゅん振り回すような高倉のリアルな殺陣に当時の観客が快哉を叫んだことが挙げられる。

高倉健と池部良の名コンビ

 60年代半ば、東映の映画館では革靴を履いた客が少なく、ほとんどがサンダルか下駄履きだった。零細企業で働き、組合にも守られず、高度経済成長の恩恵にあずかれない未組織労働者たちが、悪辣な資本家たちを一刀両断に叩き斬る高倉の姿を見て溜飲を下げ、60年代後半になると終夜興行に集まった、学園紛争の渦中にある学生たちがスクリーンの高倉に向かって「健さん、叩っ斬れ!」と叫び、場内が拍手喝采に包まれた。

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source : 文藝春秋 2022年10月号

genre : エンタメ 映画