水に筆をゆだねる 俵屋宗達「蓮池水禽図」

ふれる 日本の美を訪ねて 第2回

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◆新連載 作家・朝吹真理子が綴る美術をめぐるエッセイ

母がよくみていた

 母方の祖父を亡くしたときのことを思い出す。心筋梗塞で入院した祖父は、一度復調しかけたのだけれど、長くはなかった。ICUに運ばれたとき、祖父は戦時下の樺太にいると思って大暴れをして、看護師さんたちがそれを必死でとめたのだけれど、私も母も、祖父が樺太にいたことさえ知らなかった。私は十代半ばだった。

 祖父の死と前後して、母はよく俵屋宗達をみていた。祖父が好きだった絵師というわけではなく、宗達の絵をみていると、おとうさん、と呼びたくなるような、ふしぎな気持ちになるのだと母が言う。かつて行ったことがあるような景色だと思ったり、なつかしさがどこかにある。宗達の描く模様のひとつひとつは古典の引用であり、同時に、完成した絵は、非常に独自であることと関係しているのかもしれない。磯田道史さんから、白樺派の、小説の神様とも呼ばれた志賀直哉も、敗戦後に心の拠り所としていたのが宗達でした、と教えてもらったことがある。

 宗達が修復した、平家納経の大判絵はがきを枕元に飾って、母が眠る。私はそれを辞書のあいだにはさんでいた。それまではどちらかというとヨーロッパ美術が好きだった母の書棚に、琳派の本が、日毎ふえていった。

 私も母の部屋で宗達をみた。ぺらぺら適当にめくっていたときに「月に秋草図屏風」が目に留まる。その後、じっさいに美術館でみたときの記憶とくっついてしまっているかもしれないけれど、黒い半月が大きく浮かんでいる金屏風で、秋野原が黄金に光って果てしなくつづき、芒が揺れて広がっているようにみえた。おおきな月が黒く滲んでいる。黒い月に感激する。あとになって、月は銀泥で描かれ、年月を経て黒ずんでいると知った。金屏風から、秋風が吹いてこちらの体にも通り抜けてゆく。しずかに裸足で秋草を踏み締めて歩く。長い時間、屏風のなかで過ごしたような気持ちになる絵だと思った。

 宗達はどんな人だったのかよくわからない。俵屋宗達は個人であり同時に工房名でもあったから、よけいわからないのかもしれない。生没年もはっきりとはわからず、たけのこをもらったお礼状しか、手紙が残っていない。ぐうぜんにすぎないのだけれど、残った手紙の内容がたけのこ、であるところにかわいらしさを感じてしまっている。落胤で、あえて痕跡を消しているのではないか、という話も読んだことがある。どんなひとだったのかはわからないけれど、母と京都にでかけて宗達や本阿弥光悦の足跡をたずねたりした。醍醐寺の誰もいない境内にある霊宝館で、宗達の「舞楽図」をみたとき、絵から音がきこえていた。宗達の屏風絵のなかの舞人たちの構図が楽譜のようになって、目で音をきいた。

俵屋宗達「蓮池水禽図」(17世紀、京都国立博物館所蔵)

思い出しているとき、絵のなかにいる

 はじめて「蓮池水禽図」をみたとき、一度みただけなのに、その後二度とみられなくても、じぶんはその絵とともに生きると思った。感動というよりも、心が外に出かけてしまって、しばらく体に戻ってゆかない。放心、という言葉が近い。じぶんが薄墨の一滴になったような気がする。今思い出しても、魂がすっと遊離してしまいそうになる。みている時間がいつまでも過去にならないのはおそろしいことだ。

 掛け軸はそれほど大きいものではない。初夏の蓮池に二羽のかいつぶりが泳いでいる。蓮の花はわっと同時に咲いて散る。花の時間は短くて、わずか四日間。朝靄のなか、絵のなかの左の花はゆったりと花弁をひらいているけれど、右の花は散り始めている。朝の光が強くさすまえの、静けさを感じる。水の気配が心地よくて、薄墨で大気と水面がなめらかに、境目なく、みずみずしく漂う。このちいさな絵に、花が咲いて散る、四日間の空気すべてが漂っている。酒井抱一が書いた、絶賛の箱書きもむかしみた。宗達がみていたかもしれないという南宋画の蓮花もすばらしかったけれど、悲しいことがあった日に、私はよく枕元で「蓮池水禽図」のなかに入る。無情迅速に過ぎる時間を、墨と水とで、紙の上に存在させてしまう。かいつぶりもおだやかそうな顔で、水面の下の食べ物を探したりもしそうだと思う。宗達は生きた動物をたくさんみている人じゃないかと思う。写実という意味ではなく、絵のなかで、ちゃんと命が生きている。何百年も生き生きと、時間が瑞々しく泳いでいる。思い出しているとき、私は絵のなかにいる。宗達は、何度も絵のなかに入ったことがあるから、宗達の描いた絵に、ひとが入ることができるのかもしれない。平家納経の修理のとき、紙に触れ、筆の動きを、いま描かれつつあるようにみてほのぐらい部屋で砂子を散らしながら、宗達は平安にいた。絵のなかに何度も入って暮らした人だけが、あの筆の運びに到達できると思う。                       

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