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特集観る将棋、読む将棋

「羽生世代以降、将棋は“受験勉強”になった」85歳観戦記者の記憶

45年の将棋記者生活で見てきた光景

2018/12/21

「観戦記者」という職業を知っているだろうか。将棋・囲碁専門の記者のことで、主に新聞や雑誌に掲載される対局のレポートを書く。解説だけでなく、対局者や控室の様子、後日談が盛り込まれ、棋士の勝負観や人生観が浮きぼりになる。棋士の内面に迫るため、取材を重ねるうちに深い付き合いになりやすい。

 今回は現役最長老の85歳、高橋呉郎さんにインタビューした。高橋さんの観戦記者生活は45年に及び、八大タイトルのひとつ、棋王戦を中心に執筆。体調を考慮して仕事を絞っているものの、今年6月にも観戦記を書き上げた。

 戦前から無邪気に楽しんだ将棋や文壇の将棋会の光景。そして大棋士たちに見る、藤井聡太ら若手が時代を築くために必要なものとは何か。

将棋界の“レジェンド記者”高橋呉郎さん ©深野未季/文藝春秋

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男の子の8割が将棋のルールを知っていた時代

 将棋界の実力制タイトル戦が始まったのは、1935年のことだった。江戸時代から終身制だった「名人」の称号は、世襲名人制から実力で競う名人戦に生まれ変わったのである。

 約2年半に及ぶ第1期名人決定リーグを制し、初代実力制の名人に輝いたのが、当時32歳の木村義雄である。

 高橋さんが東京の笹塚で生まれたのは、その少し前の1933年。将棋を覚えたのは1939年ごろで、小学校に上がる前だった。

「当時、男の子の8割ぐらいは、将棋のルールを知っていたでしょう。小学校の前には文房具屋が必ずあって、紙の盤と木材のクズでできた駒を売っていましたからね。私が将棋指しで知っているのは、木村義雄でした。知名度があって、相撲の双葉山と並んで『強い男』の代名詞でしたよ。

 将棋と囲碁では、将棋のほうが大衆的だったと思います。夏休みに千葉の田舎に帰ると、農家の連中は将棋はできたけど、碁は地主の旦那とか寺の和尚、医者、学校の先生ぐらいしかできなかった。その農村だと、『金』はひっくり返して、何も書いていない裏面を表にして将棋を指すおじさんがいたんですよ。あとで気づいたんだけど、漢字がよく読めないから。字と駒の大きさが似ている『金』と『銀』の区別をわかりやすくつけるためだったかもしれない」

実力制による最初の名人、木村義雄。最初の永世名人でもある ©文藝春秋

新聞社の入社試験で『腰掛け銀』が出た

 1945年8月、日本は終戦を迎える。「名人」だけだった将棋界のタイトルは、1950年に「九段」、1951年に「王将」と数が増えていく。終戦の翌年に高橋さんは中学校に入り、高校、大学と進学する。

「戦後の新聞はページ数も少なかったのですが、将棋は破格の扱いで、新聞の社会面に写真つきで名人戦や『高野山の決戦』が報道されていたことを覚えています。升田、大山はとにかく有名で、将棋を知らないかみさん連中でも名前を知っていましたね。私は学校に将棋好きの友達がいれば、よく指していました。戦法は『腰掛け銀』、これをバカの一つ覚えみたいにやったんですよ。『腰掛け銀』は新聞社の入社試験の常識問題に出たぐらい有名だったんです」