昭和34年(1959年)創刊の総合週刊誌「週刊文春」の紹介サイトです。最新号やバックナンバーから、いくつか記事を掲載していきます。各号の目次や定期購読のご案内も掲載しています。

箱根駅伝初優勝 東海大「渾身のレースプラン」がハマった理由

2019/01/05

 東海大が箱根駅伝、悲願の初優勝を飾った。ダイエットして17キロ痩せた両角速監督の身体が宙に舞う。下馬評では圧倒的に青学大優位の中、なぜ東海大が今回、勝てたのだろうか。

「全区間、二桁の順位の選手はいなかった。全員が冷静にそれぞれの力を出してくれたことに尽きますね」

 両角監督は、そう語る。選手たちの力を発揮させるための戦略が見事にハマった。

東海大を箱根初優勝に導いた両角監督 ©末永裕樹/文藝春秋

鬼門の2区を落とさずに走れれば……

 まず区間配置だ。山登りの5区には西田仁志(2年)が早々に決まり、下りの6区は中島怜利(3年)に決まった。エース区間の2区は当初、阪口竜平(3年)に決まっていたが、夏に足を故障した影響で外れた。東海大にとって、ここ数年、2区は鬼門だった。この区間を落とさずに走れる選手が出てくれば、全体がつながってくる。そこで11月の全日本大学駅伝後に、湯澤瞬(4年)を指名した。湯澤はスピードに自信があるタイプではないが20キロを粘って走れるのが特徴で、関東インカレのハーフマラソンで2位になったタフな選手。この湯澤を2区に起用し、1区鬼塚翔太、3区西川雄一朗の3区間でトップに遅れずに、タイム差1分30秒以内を維持。4区の館澤亨次(3年)でトップとの差を詰める、あるいは後続との差を開く、というレースプランを描いた。

 このプランがハマった。

 館澤が青学大を抜いて2位に上がり、東洋大を追いやすい状況で5区の西田にタスキを渡した。総合優勝の必須条件として両角監督があげた「往路優勝」は達成できなかったが、トップの東洋大に対して1分14秒差で往路を終えることができた。駅伝には流れがあると言われているが、1区から3区まで我慢のレースをつづけ、館澤、西田が翌日につながる追い上げムードをつくったのだ。

流れを作った往路の選手たち ©末永裕樹/文藝春秋

 さらに8区と9区の選手を変更した。2区間とも初優勝に大きく貢献したが、とりわけ小松陽平(3年)の8区起用は衝撃を与えた。小松は3大駅伝を一度も走ったことがないが、この2カ月間、絶好調で練習では常に最初にゴールした。両角監督は、この「絶好調男」を12月28日に8区に投入することを決め、6区、7区で東洋大をひっくり返し、9区に同じく当日の選手変更で入ったキャプテンの湊谷春紀(4年)でレースを決めるレースプランを作り上げた。

 レースは、身震いするほどプラン通りの展開になった。