大学に着いてすぐ、鞄のブランドロゴをハンカチで隠した。それが私の教員生活1日目の思い出だ。「そういうもの」を好きで、楽しんでいる人間だと思われるのが怖かった。

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 人並みに化粧も服も買うし、身につける、つまり「よそおう」しそれをまあまあ楽しんでもいる。しかし、こうして公に言葉にするのはためらいがある。女性性を楽しむことに対して、私の中の私は、ブスのくせに、と思う。ブスである自分はそれを語るに相応しくないと考える。そのくせ、よそおうことについて語る行為自体を、どこかで一段下に見ているところもある。

「よそおう」ことについて15人の女が語る

 話したくても、「恥ずかしい」そして「下らない」と思っているのだから話せない。話さないのだから共有しようがなく、他の人はどう思っているのか気になっても確かめようもない。『だから私はメイクする』(劇団雌猫/柏書房)を手にとったのは、他の人の生活の中で、「よそおうこと」がどのように位置づけられているか、それがわかりそうだったからだ。

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だから私はメイクする 悪友たちの美意識調査』(柏書房)

「あだ名が『叶美香』の女」、「会社では擬態する女」……。全く異なる年齢・職業・出自をもつ15人の女たちが自らのライフスタイルを、メイクを中心とした「よそおい」から語るという本だが、自身の好むコスメブランドや独自のメイクルールといったあふれんばかりの固有名詞から、彼女たちの生活のリアリティーが伝わってくる。知識自慢、モテ自慢、オタ度自慢、収入自慢になってもよさそうなものだが、そうはならない。こういう人なんだ、ということが、ブランド名やアイテム名をもって想起される。すべて分からなくても、本の中は妙に居心地がいい。15人の彼女たちは比べもしないし過度に理解し合おうともしないからだ、と気づく。

共感できるのに「恥ずかしい」

 この本に登場する体験談は、社会(この社会は「高校」でも「公園デビュー」でもよい、ようは「よそおう」ことを周囲から要請され、それを意識してよそおったその日から周囲は社会だ)に出た女である限り、大なり小なり共感できるものだし、共感できるからこそ面白い。それは私も同じだ。なのに、この本を公の場で読むのは私にとってひどく恥ずかしい。政党の機関紙やエロ同人誌を読むほうが、たぶん恥ずかしくない。

 私は、こうした話題を「分かってしまう」自分をやはり、どこかで認めたくないと思っている。Jo Maloneのザクロの美しい香りを想像できるし、SK-IIのパックをした翌日の肌は調子が良いことだって知っている。当然自分だって、写真撮影のときはアイラインを慎重に引いたりするし、オペラ鑑賞の時にはドレスを着てパウダーをデコルテにはたいたりする(実は「デコルテ」という言葉ひとつここに書くことすら、今、かなり緊張している)。しかし、そういうことに時間や労力を費やしている自分を認めたくない。いくら頑張ってもこの程度の容姿か、と思うし、そんなことに資源を割いているくらいなら他のことに使ったほうが……とも感じるからだ。