2017年2月14日、マレーシアのクアラルンプールで金正男が暗殺されたとの衝撃的なニュースが一斉に流れた。
世界で初めて金正男の肉声をスクープしたのが、新聞記者の五味洋治氏である。
インタビュー7時間、150通のメールを通して浮かび上がってきたのは腰が低く、冷静でユーモアのセンスに溢れた「北朝鮮のもう1人のプリンス」の素顔だった。
著者『父・金正日と私 金正男独占告白』が昨年秋に文庫化された際に加筆された中から一部を引用してその波乱の生涯に迫る。
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「金正男(キムジョンナム)は今、どうしているのか」――
本書『父・金正日(キムジョンイル)と私 金正男独占告白』を出版した二〇一二年以来、それこそ無数に聞かれた質問だった。そのたびに、どういうべきか、返答に戸惑った。
実は、答えは簡単だ。
「連絡がつかなくなり、行方が分からないままになっている」
しかし、それは正確ではないかもしれない。連絡は今もできる状態になっているからだ。
携帯電話は変えていないようだ。かけると呼出音がして、本人らしき人物が英語で答えてくる。こちらが名乗ると切られてしまう。その繰り返しだった。
メールアドレスも、私と活発にやりとりしていた時期と変わっていない。メールを出してみるとエラーにはならない。届いてはいるようだ。以前と同じアドレスを使っているのは間違いない。
北朝鮮に関するさまざまな情報や、私の見方を書いて送ってみたが、返事はない。
二〇一一年末、この本を書き上げる前、本人は「待って欲しい」と頼んできた。私が「今がタイミングだ。新しい指導者になった金正恩(キムジョンウン)氏に、あなたの考えを伝えることができる」と説得すると「分かった。しかし、もう連絡しない」と伝えてきた。
本書の終わりの方に、その経緯について触れている。
確かに本の出版は、北朝鮮の世代交代という微妙な時期に当たっていた。
そのため、一部の読者からは正男氏の安全を優先すべきだった、という批判も受けた。逆に、彼がメディアに出れば出るほど、危険は減るはずだという声もあった。それを意識してか、正男氏も日本のテレビの取材にも応じていた。
正男氏は、金ファミリーの「キョッカジ」(横枝を意味する朝鮮語)として迫害され、西側に亡命せざるを得なくなるとの見方もあった。
実際、父、金正日総書記時代には、異母弟が北朝鮮の外交官として、事実上の「島流し」生活を送っている。
ただ、正男氏に関しては、本国から完全に排除されているとも言えないようだ。
私の知っている限り、彼は「自由」を愛する人間である。
北朝鮮と完全に切れず、かといって体制の中にも入らない。一定の距離を維持しながら、世界各地を気ままに歩き回りたいと思っている。実際そうしているようだ。
多分、何か自分でビジネスをして、祖国に一定の貢献をし、その分自由な行動を黙認されているのだと思う。今も健康で活動しているのは間違いなさそうだ。
私は、本の出版について「いつか理解してもらえるだろう」と楽観していた。
彼の生の言葉をできるだけ伝えたと考えていたからだ。会った時の様子や、メールのやりとりは、できる限り、そのまま記録したつもりだ。
本を読んだ人の反応の多くは、「正男氏は、気さくでおもしろい兄貴のような人」「北朝鮮は暗く閉鎖された国と思っていたが、この本を読んで違うことが分かった」というものだった。
私自身、勇気付けられる思いだった。公式発表を基にした分析や解説ではない。直接北朝鮮の当事者から聞いた話としても貴重だと、自分では考えていた。
正男氏は国を追われ、傷付きながらも、ユーモアを忘れない。痛風を患っているのに酒を思わず飲み過ぎてしまう。常に周辺には女性がいる。
東京ディズニーランドが好きで、悪いと分かっていながら、偽造パスポートで入国して、あっけなく当局に拘束されてしまう。
ギャンブルはやっていないと私には言っていたが、どうやらたしなんでいるようだ。いや、かなりのめり込んでいるらしい。
そんな、人の良さというか、弱さが隠せない。かなり自分に甘い人なのだ。
人ごとながら、これでよく家庭を維持しているな、と思うほどだ。そんな彼の実像は、多くの人に親近感を与えた。
短文投稿サイトのツイッターで、金正男というキーワードで検索をかけてみると、今でも「電車に乗ったら、金正男がいた」などという冗談めかした書き込みを見かけるほどだ。
北朝鮮といえば拉致問題をはじめ、ミサイル、核実験、強制収容所とネガティブな単語が次々に思い浮かぶ。暗い閉鎖社会というイメージが定着している。
しかし、そこにも人が住み、明るい笑いがある。正男氏の存在は、そんな当たり前のことを想起させてくれたのではないだろうか。
取材を通じて、マカオにある彼の私書箱を教えてもらっていたので、日本語版だけでなく、後に翻訳された韓国語版も送ってみた。
結果は、なしのつぶてだった。
『父・金正日と私』は発売直後に世界のメディアに爆発的な関心、反応を呼び起こした。そのため、彼を驚かせた部分もあっただろう。
私の妻は、私に同行してマカオに行った。彼との二回の面会に同席している。高校生のころロシア語を勉強した経験があり、正男氏とロシア語による簡単な会話を交わしている。
正男氏の方がはるかにロシア語は達者で、会話は二、三言で途切れてしまったものの、誠実な印象を受けたようだ。
妻は「とてもやさしそうな人だった。本が出てショックを受けたんじゃないの。あの人となら一生の友達になれたと思う」と時々思い出したように私を問い詰める。
しかし、「はい、そうでした」とは言えない。私は、二〇〇四年に北京の空港で正男氏に偶然会ってから、関心を持ち続け、彼のあとを七年間追い続けた。
(「文庫版のためのまえがき」より一部抜粋)