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五味 洋治
2017/02/15

金正男 ドラマティックな生い立ち

誕生を秘密とされた長男の運命

 2月13日にマレーシアで暗殺された「北朝鮮のプリンス」金正男氏。マカオ潜伏時の彼に長時間インタビューをした五味洋治氏(東京新聞)は、著書『女が動かす北朝鮮』(文春新書)で、彼の複雑な生い立ちと金王朝の壮絶な権力闘争を描いている。

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『女が動かす北朝鮮 金王朝三代「大奥」秘録 (文春新書) 』(五味 洋治 著)

 長男の正男は、2001年に起きた日本への偽造パスポートでの入国のさい、身柄を拘束され、顔がメディアに晒され、父親の怒りに触れた。このため後継者候補から外され、海外を行き来しながら生活している。時々シンガポールやインドネシアなど海外で目撃されている。  

 正男の成長の過程は、李韓永(金日成の甥)の手記によって明らかになった。  

 成恵琳と金正日との同居は秘密。もちろん息子の誕生も秘密だった。その分、息子を不憫だと感じたのだろう。金正日は幼い長男に、多くの愛情を注ぎ込んだ。  

 例えば正男が真夜中におしっこをしたいと言えば、自分で牛乳ビンを用意して受けるほどだった。  

 虫歯治療を受けた褒美に、米国車のキャデラックを与えたのも、有名なエピソードだ。  

 外部の世界に触れさせようという周囲のすすめで、正男が9歳の時スイス留学に旅だった。金正日は酒を飲みながら、娘を嫁がせる親のように、激しく涙を流したという。  

 父親から深い愛情を受けていた正男が後継者になる、という見方が強かったのも当然だろう。

正男を認めた金日成

後継者争いを背景に北朝鮮国外に出された金正男氏。写真提供:五味洋治

 金正日はいつか、長男、正男を自分の父親に認めてもらおうとしていた。李韓永の著書『15号官邸の抜け穴』によれば、75年4月、金日成の誕生日が迫っていたある日、金正日が父親に「実は……」とおそるおそる長男の存在を打ち明けた。  

 それを聞いた金日成はひどく怒って、金正日をしかりつけた。しかし、金日成も自分の看護婦に手を出して子供を産ませてしまい、金正日に相談したばかりだった。

 このためすぐに気を静め、「産まれてしまったものはしかたない。会ってみよう」と約束した。実際に会うと、丸々と太った元気な子供だった。口元から鼻にかけては金正日そっくりだった。  

 これ以降、金日成は暇さえあれば正男をそばに置いて可愛がった。  

 ところがその後、金正日は金英淑と結婚し、さらに高容姫に走ってしまう。正男に対する愛情、関心も自然と冷めていった。  

 正男が外国生活を始めるようになった背景には、高容姫の指示があったとされる。儒教社会の北朝鮮で、長男が国内にいれば、いつか後継をめぐって、もめ事が起きることを感じていたのだろう。  

 高容姫の圧力が強まったのは、80年代後半からだった。恵琳の姉、成恵琅らは高容姫を「パンチコ」という隠語で呼んでいた。彼女の鼻がトンカチのように突き出ていたためだ。トンカチは朝鮮語でマンチコだが、他人に悟られないようにパンチコと呼んでいた。  正男はスイス国際学校とジュネーブ総合大学でエリート教育を受け、イタリアやフランスなど欧州各地を旅行しながら、見聞を広げた。  

 身柄を拘束された2001年の前にも、お忍びで数回日本に来ていたことが、当時彼を乗せたタクシーの運転手らの証言で分かっている。日本では新橋の第一ホテルが定宿だった。皇居や秋葉原、新橋ガード下の飲食店、両替店などを訪ねている。  

 彼の息子の金ハンソルはマカオで育ったが、フランス・パリ政治学院に進学した。

 ハンソルはボスニアの国際学校在学中にフィンランドのテレビ局とのインタビューで、叔父である「金正恩」を独裁者と表現し、物議を醸したこともある。  

 異母弟の正恩が最高指導者の地位に上ったことで、正男が平壌に帰るのは不可能になった。金正日とライバル関係にあった異母弟の金平一が、長い間海外生活を強いられているのと似ている。  

 正男は経済や技術開発の面で祖国に貢献しており、正恩ら平壌の幹部たちも一定の評価をしているようだが、2人の間の緊張関係は続いている。

パリに亡命した養女  

 長男正男は、平壌の閉鎖された環境で育った。唯一の遊び相手は李南玉(リナムオク)だった。彼女は、成恵琳の姉、恵琅の娘だ。1966年に平壌で生まれた。父親は、南玉が2歳の時、交通事故で亡くなっており、金正日の養女となった。  

 正男は家族や使用人以外、外部の人とは会えない生活をしていた。遊ぶ時も車に乗って郊外に行き、一人で動物と遊んだ。  

 不憫に思った金正日が、話し相手として官邸に住まわせたのが、年齢の近い南玉だった。1979年のことで、南玉は13歳、正男は8歳だった。その後、ジュネーブへの留学にも同行し、92年まで共に暮らした。南玉は96年に西側に亡命している。  

 彼女へのインタビューが『文藝春秋』(1998年2月号)に掲載されている。まとまった形でのインタビューとしては、唯一のものだ。  

 この中で南玉は、恐怖心なのか、本心なのか不明だが、金正日への批判を慎重に控えている。「彼(金正日)に過剰に責任を押し付けている。彼は国家衰退の責任者ではない」「自分の気分で周囲を怒鳴りつけたり、乱暴をしたりということはなかった」と語っている。  

 このインタビューは彼女が得意なフランス語で行われた。金正日は「ボン・ヴィヴァン」(美食や快楽を愛する陽気な人という意味)だと形容していた。  

 叔母に当たる成恵琳についても言及がある。「最後に叔母と会ったのは、モスクワのサナトリウムでした。叔母の病状について申し上げるのを差し控えますが、とにかく、とても重い病気でした」と説明している。  

 南玉はフランスで、自伝となる『金の鳥かご』という本の出版を計画したことがあるが、反発を恐れてか、出版直前になって中止された。どんな内容だったのか気になる。

女が動かす北朝鮮 金王朝三代「大奥」秘録 (文春新書)

五味 洋治(著)

文藝春秋
2016年4月20日 発売

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