新安保法制が施行され、自衛官の「戦死」がいよいよ現実味を帯びてきた。しかし、今の日本という国家に、「死ね」と命じる資格があるのだろうか――。

 自衛隊初の特殊部隊「海上自衛隊特別警備隊」の創設メンバーである伊藤祐靖氏が、その数奇な体験をもとに、「国のために死ぬ」ことをとことん突き詰めて考えたのが本書だ。

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――伊藤さんは、特別警備隊の先任小隊長として、その創設に関わりましたが、きっかけとなったのは、1999年の能登半島沖不審船事件でしたね。

 当時最新鋭のイージス艦「みょうこう」の航海長として、この事件に遭遇しました。

――この時は、日本人を拉致している最中である可能性が高い不審船を発見、追跡。自衛隊史上初めて「海上警備行動」が発令され、激しい威嚇射撃の末、ついに不審船を停船させました。

 しかし、ここで「みょうこう」は大問題に直面しました。停船させたあとは、不審船に立入検査隊を送り込む必要があったからでしたね。

 当時の海上自衛隊には、特殊部隊もなければ、立入検査の訓練もしたことがありませんでした。防弾チョッキさえないという状況でした。

 相手は高度な訓練を受けた北朝鮮の工作員である可能性が高く、ごく普通に考えて、立入検査隊を送り込めば、「全滅」するはずでした。

イージス艦「みょうこう」の同型艦「こんごう」(共同通信)

――当然、隊員たちは、不安を口にします。そこで、伊藤さんは訓示をされたそうですね。

 訓示ではなく、「自分たちが行くことに意味があるのか」と質問してきた部下にこう答えたんです。

「つべこべ言うな。今、日本は国家として意思を示そうとしている。あの船には、拉致された日本人のいる可能性がある。国家はその人たちを何が何でも取り返そうとしている。だから、我々が行く。国家がその意思を発揮する時、誰かが犠牲にならなければならないとしたら、それは我々がやることになっている。その時のために自衛官の生命は存在する。行って、できることをやれ」

と。

――その時、伊藤さんはどんな心境でしたか? また、隊員はどんな反応でしたか?

 あの時、彼に私自身の職業観や死生観をぶつけるようなことを言ってしまったのは、じつは、自分だけが「置いてけぼり」にされている気持ちだったからだと思います。航海長という立場上、私が乗り込むわけにはいきません。

 せっかく、これまでにない重大な命令が下された。俺は行けないのにお前は行けるじゃないか。何を言ってるんだ、という気分があったんですね。

 ただ、その気持ちを押し付けるつもりはなく、当然、相手も反論してきて、議論になると思っていた。そこで、お互いの思いを腹の底からぶつけ合えば、彼の気持ちが少し楽になるんじゃないかと。

 ところが、彼は反論するどころか、

「ですよね」

 と、粛々と立入検査の準備を始めてしまった。

 むしろ、わたしのほうが、

「それだけかよ……『ですよね』だけで行っちゃうのかよ」

 と思うと同時に、彼の人生すべてを背負ってしまった責任の重さに戸惑いました。

 ある隊員などは、防弾チョッキの替りのつもりなのか、『少年マガジン』をガムテープで胴体に巻きつけていました。とても滑稽な姿なのですが、わたしは、その清々しく、美しいとしか言いようのない表情に見とれていました。

 彼らは、命令を下されてからわずか10分の間に、この世のことはすべて諦め、“わたくし”をすべて捨て去ったのです。

 あの時、わたしは、70年前に特攻に向った先輩たちも、きっと同じ表情をしていたのだろうと感じました。

――この時は、いったん停船した不審船が、再び猛スピードで動き出し、北朝鮮の領海に逃げ込んだため、実際に隊員たちを送り出すまでには至りませんでしたが、もし検査隊が送り込まれ、全滅していたら、伊藤さんはどうされるつもりでした?

 わたしも生きているわけにはいかないと思いましたね。

 同時に感じたのは、こういう任務には、「向いている人」と「向いてない人」がいるということでした。立入検査隊員たちは自分の死を受け入れるだけで精一杯で、いかにして任務を達成しようかということまで考える余裕はありませんでした。

 ところが、世の中には、「自分が死ぬのは仕方ないとして、どうやって任務を達成しようか」と考える人間もいるんです。そういった特別な人生観の持ち主を選抜し、特別な武器を持たせ、特別な訓練をさせなくては、任務を達成することはできない。そのことを痛感しました。