ニンテンドースイッチに至るまで受け継がれている、任天堂の「他と違うからこそ価値がある」という価値観は、どのように形作られていったのか。

 任天堂の社史をさかのぼってみる。創業は1889年だ。創業者は山内房治郎。彼は、ファミコンを発売した頃の社長である山内溥の曾祖父にあたる。

 房治郎は1885年、京都で石灰問屋「灰岩」を継ぐことになった。ここで屋号を「灰孝本店」と改めている。

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 ちょうど同じ年に琵琶湖を京都市の用水とする琵琶湖疎水が着工した。これをきっかけに店はセメントを扱うようになり、順調に成長していく。ちなみに、灰孝本店は130年以上経った今も、京都に現存している。

 だが1885年は任天堂にとって、より重要な社会の変化が起こった年でもある。政府が西洋かるた(トランプ)の輸入販売を公認したのだ。

 その直前まで、花札などのカード賭博は厳しく取り締まられていた。折からの自由民権運動の高まりもあり、風紀の乱れを危惧した政府が、警察に大きな権限を与えて綱紀粛正を図っていたのだ。たとえば1884年には、有名な博徒・清水次郎長も逮捕されている。

清水次郎長 『幕末・明治・大正回顧八十年史』より 

花札史に名を残す前田喜兵衛という男

 ところが政府がトランプの輸入も禁じたことで、海外からクレームが付く。賭博は犯罪だが、カード自体はゲームに使う遊具なのだから販売を許可すべきだというのだ。その結果、賭博に使われるカード類の販売が認められる状態がなし崩し的に作られていく。

 それでも花札に対して、世間の人は及び腰ではあった。だが1886年、前田喜兵衛という男が一念発起して、東京・銀座で花札を売る店を大々的にオープンする。この経緯について、江橋崇『花札 ものと人間の文化史167』(法政大学出版局、2014)には次のように書かれている。

〈前田によると、彼は明治十八年(一八八五)に法律書を読んで、花札の販売は実は合法的であることを知り、十二月一日に汽船東海丸で上京した。彼は年末の十二月二十五日にカルタ販売の営業届けを内務省に提出し、また、御用納めの日に警視庁保安課にも届けを出した上で、明治十九年(一八八六)一月に実際に販売を開始した。〉

 厳しく取り締まられながらも、抜け穴があるというのが、どこか日本らしい気もする。ともかく、これで世間の認識としても"賭博"と"遊具"は別々のものとして切り離され、花札が大流行するきっかけになった。

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 京都の山内房治郎も、この「遊具は合法」という点に目をつけて、1889年に任天堂の前身となる「山内房治郎商店」を設立。花札の製造を開始する。