賃貸住宅に住んで家賃を払い続けるくらいならば、同じくらいのお金を払って住宅を「所有」したほうが良い。いつのころからこんな議論が日本人の間で交わされるようになったのだろうか。

戦前は都市部の人間はほとんどが借家暮らしだった

  戦後、日本は高度成長の波に乗って経済大国への道をひた走ることになるが、躍進を支えたのが地方から東京、大阪、名古屋の三大都市圏に流入してきた大量の若者だった。地方出身の彼ら彼女らは、都市部の学校を出て就職し、家庭を築き、そのまま親が住む地方に戻ることがなかった。彼らが都市部で家を持とうとしたのは、地方では「家を持つことがあたりまえだった」からである。実は戦前は、都市部の人間はほとんどが借家暮らしで、家を持つという発想はそもそも希薄だったのだ。

 つまり、地方の常識が、東京などの大都市での持家の需要を大幅に高めたのである。

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 一つのエリアに大量の人々が押し寄せて家を求めたことから地価は上昇し、彼らが買った戸建てやマンションは値上がりした。家を持てば資産になる、それを「住宅神話」と呼んだのだ。

 でもこの理屈はもうとっくの昔に成り立たなくなっていることについて、多くの人が気づいているはずなのに、それでも家を買おうとするのは、「家賃を払うのはもったいないから買ったほうがトク」という意味不明な議論のせいである。

投資の観点からみると、家の購入は危険な大博打

 そこで、家を買って儲かるかという、「不動産投資」の観点から家の購入を考えてみることにしよう。家を買うのに多くの人は住宅ローンを利用する。いまでは最長で35年もの長期ローンを、頭金ゼロでも借りることができる。

 しかし、35年もの債務を負って家を買う、というのは投資の観点からみたら「実に危ない投資」と言わざるを得ない。なぜなら、この債務の支払い原資は、債務者(自分)の給料債権のみであり、家という「資産」が稼ぐ収益に基づくものではないからだ。これは通常の不動産投資と決定的に異なる点だ。

 昔のように多くの会社が「終身雇用」を謳い、どんな人でもまじめに働きさえすれば給料は年齢とともに上昇するのであればよいが、今の時代そんなことを保証できる会社は極めて少数だ。それは東芝やシャープの例をみるまでもないだろう。

 住宅ローンの債務者は、家自体を「生活する」という消費の為だけに使うので、債務の支払いを給与という自らの働きに依存せざるを得ない。しかもこの債務は35年という長期債務だ。その期間中債務者が元気に働ける保証はなく、また今以上の給与を稼ぐという保証すらどこにもないのだ。こうなると夫婦共働きで「なんとか返します」などというのは、正気の沙汰とは思えない。この夫婦が健康でしかも「仲良く」あり続けることの困難さを棚上げしているとしか思えないからだ。投資の観点からみれば、実に危なく馬鹿げた投資ということになる。

35年我慢して返済した先に残る古ぼけた物件

 それでも35年我慢して返済を続けた先に手元に残る家=資産が、輝かしいものであれば投資は成功である。では自身が買った戸建てやマンションの35年後の姿を想像してみよう。想像が難しければ、現在築35年の戸建てやマンションを見学してみればよい。一部のビンテージマンションなどを除いて、多くの建物は「古ぼけた」「ぱっとしない」物件として目の前に鎮座していることであろう。これらの物件にどれほどの価値があるというのだろうか。

 投資の基本は、買った資産からどのくらいの「運用益」が得られるか、と最後に売却した(これを「出口」という)場合にどのくらいの「売却益」がでるか、この総和が買った時の値段(投資額)に比べて高いか安いかで成否が決まる。

 ところが家は自分が住む限りにおいては「運用益」はなく、出口での「売却益」のみが頼りだ。家は経年劣化していく。早く売却しなければ価値はどんどん落ちていく、これが投資の鉄則だ。マンションなどに投資する投資家のスタンスは基本5年以内の運用であるのはこのためだ。そして彼らは購入するために全額をローンで調達したりはしない。危ないからだ。運用期間中の不動産価格の変動に備えて、彼らの投資における負債(ローン)の割合は半分以下であることが基本である。それに比べてせいぜい10%程度の頭金しか用意しない住宅ローンの危うさがわかるはずだ。

 さらにこれが自宅であれば、不動産として運用するならば5年おきに住み替えなければならない。ご苦労なことだし、付き合わされる家族はまことに気の毒だ。いっぽう運用もしていない家を35年も持ち続けて売却利益を出そうというのは、壮絶な「博打」を行っているのに等しい行為なのだ。

投資の観点から見ると、家の購入は危険な大博打 ©iStock.com

 長期の住宅ローンを組んでまでも家を買いたい人は、その家が「絶対に欲しい」、そしてそのためなら「どんな苦労をしてもかまわない」、と断言できる場合に限るべきだ。