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佐々木 俊尚
2017/06/12

「日本は経済成長を目指す必要はない」という能天気な意見に潜む「公私混同」

「経済成長なんか目指す必要はない」という意見が日本の左派の人には多い。最近だと、東大名誉教授の上野千鶴子さんが東京新聞に語っている。「日本は人口減少と衰退を引き受けるべきです。平和に衰退していく社会のモデルになればいい。一億人維持とか、国内総生産600兆円とかの妄想は捨てて、現実に向き合う。ただ、上り坂より下り坂は難しい。どう犠牲者を出さずに軟着陸するか。日本の場合、みんな平等に、緩やかに貧しくなっていけばいい」

 ちょっと前の例では、元首相の細川護熙さんが2014年、東京都知事選に立候補した時のこのことば。「大量生産、大量消費、経済成長第一でいいのか。欲張りな資本主義ではなく、心豊かな成熟社会に転換するべきだ」

 これには「勝ち逃げしているシニアのたわごとでは」という非難が出てくるのも当然だと思う。いま豊かさの底が抜け、相対的貧困率は非常な勢いで上昇している。シングルマザーや中高年ひきこもり、就職氷河期で非正規雇用のまま40歳に達してしまった人たちなど、低収入、かつ不安定な身分に苦しむ人たちはたくさんいる。経済成長という雇用を生む数少ない機会を捨てて、なにが「心豊かな成熟社会」だ、と私も思う。たわごとと言われても仕方ないだろう。

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なぜこういう能天気な意見が出てきてしまうのか

 私は一昨年に書いた本『21世紀の自由論 「優しいリアリズム」の時代へ』(NHK出版新書)でこう書いた。「私たちが考えなければならないのは、どうやって少しでも成長を維持していき、1億2千万人が生きていけるように社会を次の時代に向けて軟着陸させていくのかということだ。政治家にはそのための徹底したリアルな戦略が求められている。決して『経済成長なんか要らない』と強行着陸することではない。そんなことをすれば、たくさんの人が餓死し、日本は阿鼻叫喚の大地となるだろう」

 当たり前の話である。ではなぜ、こういう能天気な意見が出てきてしまうのか。私は、そこには「公私混同」が潜んでいるのではないかと考えている。

 社会には「公共私」という三つの空間がある。政府や自治体などの役所がになう「公」と、個人の領域である「私」、そのあいだを共同体や非政府団体などでむすぶ中間領域の「共」。ところが日本ではこの三つの区分けが曖昧で、ごっちゃに語られてしまうことが多い。

「私」や「共」の領域でさまざまな生き方を試みるのは、大切だ。江戸時代の循環型社会に憧れ、病気やケガなどの危険も承知の上で、山間部で江戸時代のような循環型の暮らしをしてみるのも「私」の自由である。熊本でエコビレッジ「サイハテ」を運営している私の友人、工藤シンクは「電気・ガス・水道・政治・経済がストップしても、笑っていられる楽園づくり」と常々言っており、こういう自助の理念も「私」の領域では必要だ。ここから新しい暮らしのロールモデルが現れてくることも期待できる。

 でも「公」である政府が、国民に対して「これからは山間部で循環型の暮らしをしましょう」と呼びかけるのは間違っている。そんなことを強制したら、たくさん死人が出る。それこそポルポトか毛沢東の文革か、である。

 だから、社会のシステムを考える時に公私を混同してはならない。