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「バッド・フェミニスト」とは何か?

鈴木涼美が読む『バッド・フェミニスト』

2017/06/27
note

東京にいる私にとって、フェミニストでなければならない圧力はないが……

 それは私にもとても響く思想である。これが好き、こうしたい、こうされたいと心から思っても、「それは社会的に構築された意思である」と返され、しかし社会的に構築されたものであったとしてもこれは魅力的だと返す、終わりなき議論にはすっかり飽きているから。だから私は処女作『AV女優の社会学』の中で、自由意志による売春に見えるものが実は社会的な圧力のもとで強制的な売春なのか否かという、昨今の売春論で支配的だったつまらない空中戦を無害化しようと試みたわけだし、目の前にあるものに沸き立つ感情をいちいち歴史をひっくり返して疑ってかかるなんて、とても疲れると今でも思っている。それは社会学のクラスで一年間勉強するべき課題ではあるけれども、忙しい日常を生きる私たちにはそれほど重要な視点だとも思えない。

 近年、米国ではビヨンセやエマ・ワトソンなどの活動で代表されるように、あるいはマガジンコピーが幾度も取り上げているように、洗練された女性の条件としてフェミニストであるということが重視される風潮ができつつある。もちろん、昔から一部の先進国のアカデミズムの中では当たり前だったことだが、それがファッションやセレブリティの発言にまで降りてきた、という感じであろうか。だからこそ、ロクサーヌ・ゲイの提案、フェミニストを名乗りながらピンクのアクセサリーを身につけ、時にはとても人任せなデートを楽しみたいという女性のあり方は、広く支持されたのかもしれない。

ビヨンセ(右) ©getty

 さて、東京にいる私にとって、正直フェミニストであらねばならない、あるいはそれを言葉にしなくてはならない、というような圧力はあまりない。それは、学術的な場の議論にのみ要求される態度で、むしろ平場でフェミニストと名乗っている女性はあまりいないか、いたとしても、それこそゲイがそう呼ばれるのを嫌っているような、怒りっぽくてセックスを楽しんでいなそうなオバサンという印象は強い。

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 しかし、ゲイが「バッド」なんて自らを称してしまわなければ解決できなかったこのアンビバレンツは、私たちの多くが経験したことのある問題だ。これは、正しくあろうとするのか、心地よくあろうとするのかの問題だ。尊敬されたいのか愛されたいのかの問題であり、人として優れているのか女として優れているのかの問題であり、頭の良さと可愛さの問題であり、理性と感情の問題であり、プライドかモテかの問題でもある。この問題は未解決のまま大人になってなお私たちを引き裂き、選んだ価値のもう片方の価値に常に劣等感を覚えなければいけなかった。

エマ・ワトソン ©getty

最近の自己啓発系の「どっちも諦めない!We have it all!」思想

 最近の、ネットにいくらでも転がっているような、自己啓発系の女性のエッセイやブログなんかを見ると、「どっちも諦めない!We have it all!」とものすごい笑顔で語りかけられるような気分になる。自己実現的なとても実りのある仕事を持ち、恋も全力、おしゃれも全力、美容も勉強もグルメやヨガまで全力!!

 そんなスーパーウーマンがいることを否定はしないが、ぶっちゃけ私のような怠惰な女は、仕事に全力な時は髪の毛は伸ばしっぱなしになるし、ネイルや化粧をしている時に小難しい話題を振られても対応できないし、恋をしていれば別に仕事がなくても気分がいい。医学部受験に明け暮れていたら、同世代の朝から晩までファッション誌を読んでエステに通い、キャバクラで働いて高い靴を買っている女に、太刀打ちできない。可愛さのために全力で整形して高い化粧品を集めていたら、東大の学費なんて払えないし、本を買うお金だって残らない。