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森下 典子
2017/07/16

鳩サブレーは真面目で素朴。なんて素敵なんだろう

思い出と幸せを分かち合いたくて『こいしいたべもの』を書きました(3)

 高度成長期を迎え、だんだんと豊かになる昭和を過ごした著者が、やさしい思い出とともに綴るイラストエッセイ『こいしいたべもの』が発売されました。ホットケーキやカップ焼きそばなど、いまなお、身近にあるたべものがたくさん登場します。鳩サブレーも、昔ながらの銘菓で誰もが知っているお菓子のひとつ。本書より、ほっとする時間をお分けします。

◆◆◆

「かっくまら」

©森下典子

 よちよち歩きだった頃、私は「鎌倉」をこう呼んでいたらしい。

 当時、両親と私は、横須賀市にある父方の祖父母の家に同居していた。父は休日になると、趣味のカメラを肩にかけ、私を片手でひょいと抱き上げて外出した。行き先は、いつも「かっくまら」だった。

 布張りの古いアルバムに、私が生まれた日からの写真が貼ってある。まだモノクロ写真の時代だった。その中に、父が鎌倉で撮影した、鶴岡八幡宮の玉砂利の境内を歩く私が写っている。

 両手の拳をぎゅっと握り、真剣な顔で、何かに向かってよちよちと歩いていく。その姿は、まるで「奴凧」のようだ。向かう先には鳩の群れがいる。

 当時は鶴岡八幡宮の境内で鳩の餌の豆が売られていた。観光客が豆をまくと、わっと鳩が群がって足の踏み場もないほどになった。

 たぶんそれが面白かったのだろう。豆も石も区別がつかない私は、両手に玉砂利を握りしめ、一歩一歩鳩の群れに近づくと、パッと投げつけた。鳩は驚いていっせいに飛び去った。八幡宮の境内を、あっちへよちよち、こっちへよちよちと行っては、玉砂利を投げた。奴凧が行く先々で、鳩がパーッと飛び去った。

「あの子、やだー」

「あの子が来ると、鳩がいなくなっちゃう」

 修学旅行の生徒さんたちに、私は随分嫌われたらしい。

 お菓子を一かけら口に入れてもらったのは、父と「かっくまら」へ遊びに行った日、家へ戻ってからだった。

 それは甘く、口の中でサクサクと砕けて、優しい味がした。

 

 両親と私が横須賀の祖父母の家から、建ったばかりの横浜の家へ引っ越したのは三歳の時だった。横浜駅は賑やかで、西口に大きなデパートができたばかりだった。

「たかしやま」

 私は、そのデパートをそう呼んだ。

 父の会社がお休みの日は、親子三人で「たかしやま」に買いものに出かけるようになり、「かっくまら」へは足が遠のいた。

 私の意識に初めて「鳩サブレー」という名が登場したのは、横浜へ引っ越して数年後。小学校の三年か四年の頃だった。ある日、お客様からいただいたお土産の包みを見て、

「あら、懐かしい。鳩サブレーだわ」

 と、母が嬉しそうな声をあげた。レモンイエローの大きな缶に鳩の絵がついていて、蓋を開けると、中に大きな平べったい焼き菓子がいっぱい入っていた。一枚手に取ってみると、それは、ふっくらとした鳩の形で、生地にぽってりと厚みがあり、表面の黄金色がおいしそうだった。

 私はその鳩の尻尾のあたりを齧った。サクッと砕ける食感と共に、優しい甘みが口の中に広がって、ファーッとバターの香りに包まれた。

 バニラの香りも、チョコやナッツのトッピングもない。ずいぶん素朴なお菓子だと思った。どこか離乳食を思わせる素材の味がした。

 その頃から、「鳩サブレー」は、お土産のスタンダードになっていったらしい。「鳩サブレー」をいただく機会が急に増えた。いつも大きな缶だった。一缶食べきれないうちに、また新しい缶をいただく。時には、続けて二人からいただいた。鳩の絵のついたレモンイエローの缶が家の中にいつもあった。その鳩の絵が、今も目に焼きついている。母は「鳩サブレー」の空き缶を、毛糸やハギレの入れ物にしていた。

 近所の友だちの家に遊びに行くと、そこでも茶箪笥の上に「鳩サブレー」の缶があった。その家では「古い手紙やはがきを入れている」と聞いた。

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