母と一緒に作った、バターがとろける甘いホットケーキ。父が大好きだった、少し焦げ目がついた焼きビーフン。なつかしくて、胸がほんわか温かくなるたべものたちの思い出を、おいしいイラストとともに綴るエッセイ集『こいしいたべもの』が発売されました。忙しくて気ぜわしい日々に、本書の優しい時間を少しばかり、お分けします。

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『こいしいたべもの』(森下典子 著)

 ゴールデンウィークのよく晴れた午後、横浜港に入港した豪華客船を家族で見に出かけた。その頃、わが家は四人。私は大学生で、弟が中学生。両親もまだ働き盛りだった。

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 その帰り道、駅のホームで電車を待ちながら父が言った。

「今夜は、みんなで何かうんまいもの食おう」

「うまい」という言葉に感情を込めて、父はいつも「うんまい」と言った。そして母は、笑いながら「はいはい、わかりました。うんまいものね」と頷いた。

 もし今、誰かに「幸せって何?」と聞かれたら、私は迷わず「あの日の夕方」と答える。それは、四人家族の家で、何十回となく繰り返された休日だったけれど、私はその夕方、わが家に流れていた匂いと物音と空気を、今もありありと覚えている。

 父は明るいうちから早々と風呂に入った。湯船から勢いよくザバーッとお湯が溢れる音がして、「はぁーっ! いー気持ちだ」と、唸りをあげる声が、家中に聞こえた。父が上がると、弟、そして私と、次々に早めの風呂に入った。

 台所では、母が野菜をスタスタと刻み、卵をカカカッと溶き、熱い鍋にジャーッ! と流し入れる音がする。風呂上がりの父は、茶の間でビールを一杯やりながら、テレビを見ていた。

 私が風呂から上がる頃、「ごはん、できたわよ~」と、母が呼んだ。

 テーブルには、大皿に盛ったちらし寿司と、筍とわかめの澄まし汁。それから初鰹の刺身が並んでいた。ちらし寿司には錦糸卵がいっぱいかかっていて、酢飯の甘酸っぱい匂いがした。澄まし汁の筍は、さくさくとして甘く、初鰹の断面は、瑞々しいピンク色だった。私と弟が何度もおかわりするのを見て、父は、

「そうか、うんまいか。もっと食べなさい」

 と、酔って赤くなった顔で、何度も繰り返した。

©森下典子

 私は、ふと立ち上がって、庭に面した窓を開けた。寒くもなく暑くもなく、気持ちのいい風が入ってきた。暖かかった昼間の気配がまだどこかに残っていて、空には一刷毛(ひとはけ)紅をさしたような明るさがあった。そして、空気に何か甘い匂いがする……。

 その時、薄明るい夕空をバックにして、目の前十五センチくらいのところに「幸せ」が見えた。それはぽっかりと宙に浮かんでいて、ひょいと手を伸ばせばつかめそうだった。

 その記憶のせいだろうか。私は今でもよく晴れた日の空に、ぽっかりと浮かんでいる幸せを見ることができる。

(2)に続く

こいしいたべもの (文春文庫 も 27-2)

森下 典子(著)

文藝春秋
2017年7月6日 発売

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