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【追悼】内海桂子さん 最後まで“本物の芸”を追求し続けた「ただ喋ればいいわけじゃないのよ」

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弟子、ナイツの「答え」は?

柳田 内海さんといえば、「都都逸」の名手ですよね。

内海 都都逸とは、元々お座敷で芸者とお客さんが歌う“艶歌(つやうた)”なんです。決まりとしては、7・7・7・5の中に収まればいい。でも今は、飲みに行ってそんな粋なことをやる旦那はいなくなりました。昔は都都逸の先輩がいて教えてもらえたけれど、私以外にそれもいないしねえ。

 あと、私がやっている芸は、「銘鳥銘木(めいちょうめいぼく)」です。

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柳田 今やあまり聞かなくなった言葉ですね。辞書の「新解さん」にも出てませんしね。

内海 分からないでしょう。100年以上前の漫才ですからね(笑)。でも、やってみると、案外、単純なんですよ。一人が「銘鳥銘木、何の木に留めた。何の鳥に留めた」と振り、相方が「木と鳥」で答えを返すだけ。

柳田 内海さんはご著書の中で、弟子の漫才コンビ「ナイツ」が次のように返してきたことを紹介していますよね。「ウイスキーに留めた」「答えはサントリー」。これは名答だと思いますよ。

内海 「ういす木でさん鳥」ですって(笑)。私だったら、こういう返しをするかな。「病気(木)にとめた」「医者の看護婦さん、脈とる(鳥)」。病気はネタにしにくいけれど、これなら失礼にはならないでしょ。笑えないデタラメや失礼は、芸とは言えません。昔の人はこういうシャレがよく出てきましたよね。でも、今の若い子たちはそういうシャレが出てこないのよ。シャレの妙味が分からず、マジで答えちゃう。だから、面白くないのよね。

「本当の芸」が生まれる瞬間

柳田 今、テレビのバラエティー番組を見ていますと、その瞬間だけの言葉尻を捕まえただけだったり、視覚的な動きで少し笑わせたりするだけで、なかなか「本物の笑い」が無い気がするんですね。

内海 「笑わせよう」と意識している芸は面白くないの。何度も何度も失敗をして、その失敗を次に活かせた時に、本当の芸が生まれるの。

柳田 「本当の芸」ですか。内海さんは80年に及ぶ芸歴の中で、色々な“芸人”や“芸好き作家”たちと交流してきたでしょう。永井荷風、渥美清、東八郎、由利徹、エノケン……。どんな思い出が……。

柳田邦男さん ©文藝春秋

内海 そうねえ。でも、この世界ははっきり言って競争ですから。自分と同じような芸をしている人からは、勉強しようとも思いませんでしたね。まったく違うことをしなければ、生き残っていけないから。

 そういう意味では、八代目・桂文楽師匠は、非常に可愛がってくれましたね。落語という芸は、私がやっていることとは違うから。でも、同じ噺家さんでも、六代目・三遊亭圓生師匠のところには行かなかった。私とは合わなかったの。だから、「おいで」って言ってくれる文楽師匠の所に行っていました。

柳田 私は小学校5年生の夏休みに「古典落語全集」をぜんぶ読んだんです。農家をやっていた母の実家にあって、戦後の食糧難で、夏の一カ月間、身を寄せていた時です。それから大の落語ファンになったのです。テレビのない頃ですから、ラジオで落語や講談を聴くのが楽しみでした。

内海 昔は、素人が突然楽屋に来て、師匠に弟子入りを頼み、長年、修行を積んで、噺家になっていました。芸人だって同じです。ご飯は喰わせてもらえるけど、師匠の下でタダ働き。そして、芸を積んでいく。

お金をかけて芸を習う芸人が多くなった

柳田 内海さんは、どうやって芸を磨いてきたのですか。

内海 私は浅草の床屋で育ち、数えの10歳で神田の蕎麦屋に奉公に出されました。尋常小学校は4年で中退です。12歳頃から踊りと三味線を習い、町の小料理屋で三味線を弾いて、銭をもらっていた。最初は弾けないから誤魔化していました。すると、ある時、私の三味線を聞いた人が「漫才をやれば?」と言ってくれた。そこで浅草の漫才小屋に何年も通い、他人がやっているのを見て、「あの言葉を使ったら面白くないな」と思ったりして、漫才の喋り方を自己流で学んだのです。その後、16歳の時に漫才の舞台に初めて立ちました。私は師匠に弟子入りしたわけではないけれど、「芸」で銭を儲ける術は、身体で覚えてきたんです。

柳田 その後は、ずっと好江さんと「内海桂子・好江」で漫才をやってこられました。

内海 好江の母親から「娘を預かってくれ」と頼まれたのが、好江が14歳の時。私は28歳だった。あの子に踊りから何から全て教えてあげたのは私です。そして、61歳で好江が死ぬまで、ずっと一緒にやってきた。そうやって芸を身につけていく時代だったのです。

 ところが今は、お金をかけて芸を習う芸人がなんと多いことか。そういう若い子たちは、私の所に弟子入りには来ませんよ。「芸を身に付けること」の意味が時代とともに変わってきたのかもしれません。