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「不動の人気駄菓子は…」たった一軒だけ残った日暮里の問屋「大屋商店」はいま

街から駄菓子屋が消えていく #1

2020/12/12
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昭和31年、集団就職のために上京した律子さん  

 大屋商店は、終戦直後の昭和22年に創業した。最初は煎餅を販売し、やがて駄菓子を取り扱うようになる。今年で73年目を迎え、律子さんで2代目だ。

 栃木県出身の律子さんは昭和31年、集団就職のために上京した。中学を卒業したばかりで、たどり着いたのが日暮里の駄菓子問屋街だった。

「私1人で来たの。あの当時はみんな東京に憧れていたんだもんなぁ。高校なんか行く人いないよ。先輩が2~3年前に住み込んでいたとこに来たんだ。当時は飴が1円とかの時代だもん。飴って言ったら、黒玉とか変わり玉とかゼリービーンズ、金平糖、芯抜き飴とか。知らないよねえ?」

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 馴染みのない飴の名前が律子さんの口から出てくる。

くじつきのおもちゃも人気だ

「今は変わった飴ばっかりだな。昔は今みたいにこんな駄菓子が何百点も品数ありません。ここは卸問屋だったから、駄菓子屋のおじいちゃんおばあちゃんが風呂敷を背負って仕入れに来たんだよ。風呂敷だよ!」

 懐かしそうに語る律子さんは当初、大屋商店ではなく、その近くに建つ別の問屋に住み込みで働いた。女性ばかり6~7人が2階の部屋に寝泊まりし、午前4時ごろから晩まで働き詰めだった。

「朝昼晩交代でご飯の支度をしたり、洗濯をしたり、店に子供がいれば、幼稚園の送り迎えをしたりと、昔で言う女中さんだよ。それもやってながら、お店にも出てた。住み込みの時代はお給料1カ月1500円。今みたいに時給なんてないよ。それで10年経って1万6000円ぐらいになったんだ」

©文藝春秋

コンビニとゲームの登場で転換期を迎えた80年代

 やがて大屋商店の息子に思いを寄せられ、25歳の時に結婚して嫁いだ。以来、夫の清さんと問屋を守り続けてきた。当時は木造の2階建てで、再開発によって平成の初めごろにマンションの1階へ移り、そして平成21年に現在のタワマン2階のテナントへ移動した。3年前に清さんが亡くなり、現在は従兄弟ら3人で続ける。従兄の水野雅美さん(62)が、駄菓子屋の時代背景をこう説明する。

「僕たちが小さい時、昭和30年代ぐらいは遊ぶ場所が駄菓子屋しかなかったんだよね。学校から帰ってきたら、小遣いもらって駄菓子屋に買い物に行ったじゃん。でもだんだん子供が減ってきて、コンビニができて、外で子供が遊ばなくなった。ゲームやったり塾ばっかり行って、子供が駄菓子屋に行く時間がなくなったの。今は学校から帰ってみんな駄菓子屋なんて行かないでしょ? それで減ったの。さらに消費税の導入で追い討ちをかけられたんです」