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熊田 梨恵
2017/09/24

「産後うつ」が行政にも医療現場にも見過ごされてきた理由

 日本の妊産婦死亡の原因の1位は、自殺なのをご存知だろうか。

 東京都監察医務院などが昨年発表した調査で、東京23区で2005年から10年間に自殺で亡くなった妊産婦は計63人いた。この数字には、産後うつや、育児で悩んでいた母親が含まれている。産後うつに詳しい宗田聡医師(広尾レディース院長)は、「平均して都内で年間6人。これを単純に日本の人口の割合に当てはめれば、国内で年間に推計約150人の妊産婦が自殺していてもおかしくないということになります」と話す。2010年に日本テレビの女性アナウンサーが産後うつで自殺した事件を覚えている人もいるかもしれない。

 また産後のケアサービスを提供するNPO法人マドレボニータ(東京)の2016年の調査では、産後2週~1年の間に産後うつに近い状況になった人(産後うつの診断を受けていない人も含む)が77%もいた。

 日本は妊産婦や乳幼児の死亡率の低さなど医療レベルでは世界トップクラスであるにもかかわらず、なぜ母親たちがこのような状況に追い込まれているのだろうか。これには、前回指摘された核家族化などの社会的背景だけでなく、「産後ケア」の視点に乏しい日本の医療業界の問題、母親を支えるはずである母子保健制度の欠陥があった。

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産婦人科でも精神科でも見過ごされてきた

「実際のところ、産婦人科医でも産後うつの実情を知らない医師も少なくありません」と医療業界の実態を話すのは前出の宗田医師だ。産婦人科医なら当然「産後うつ」を知っているはず、と思いがちだが、欧米で女性や母親のメンタルヘルスに注目が集まり始めたのは80年代、日本では2000年以降。このため、産婦人科で気持ちのつらさを訴えても「産後は気持ちが揺れるから仕方ない」で終わってしまうこともめずらしくない。

 それでは精神科医なら知っているのかと思うが、「精神科では、通常のうつで自殺企図があるほど重度のものや、重症の統合失調症患者などで手いっぱいである状況が多く、精神科で妊産婦のメンタルヘルスに興味のある医師はまだまだ少ない」(同前)。医療現場でさえ産後うつの認知はまだまだ低いのが現状だ。

 なぜ日本では、医療現場での母親のメンタルケアが重視されてこなかったのか。そこには、行政が進めてきた「母子保健制度」において母親のメンタルサポートという視点がすっぽりと抜け落ちていたこととも関係がある。

母子保健ですっぽり抜け落ちた、母親のメンタルサポート

 母子保健制度とは、妊婦や母親、子どもの心身のより良い健康を保持、増進するための制度施策をいう。母子保健法や児童福祉法、児童虐待防止法、地域保健法など多くの法律に基づいている。妊娠を役所に届けると母子手帳をもらえたり、妊婦健診を無料で受けられたり、産後に保健師の訪問があったりするのは母子保健制度があるからだ。 

 日本の母子保健制度は戦前から存在するが、戦後は妊婦や母親、子どもを困窮状態から救い、栄養・衛生状態を改善し、医療の質を向上して死亡数を減らすことが目的だった。高度経済成長期以降に女性の社会進出も進んで1990年以降に少子化対策が始まると、母子保健制度の目的は「子どもの虐待防止」に大きく傾いていく。

 その背景には1989年に国連総会で子どもの権利条約が採択、国内では2000年に児童虐待防止法が制定されるなど、虐待への関心の高まりがあった。虐待関連の報道も増え、それまではしつけと混同されたことが「虐待ではないか」と疑われるようになり、児童虐待件数は統計の残る1990年度から2016年度には12万2578件と、26年連続で増え続けていた。

 結果、母子保健制度にも虐待防止の視点が盛り込まれ、子どもを守るための虐待防止対策は各地で進んだが、虐待する母親の心のサポート、虐待にまで至らない母親のメンタルをどのように支えるのかという問題には光があたることがなかった。

 それどころか、2000年の厚労省による国民運動計画「健やか親子21」の中では産後うつの数値目標も挙げられていたにもかかわらず、「改善した」と最終評価され、母子保健全体の中での母親のメンタルケアの色合いが薄まってしまった。