韓国アイドル・コスメ・飲食店を中心に、中国語の看板やタイ・ベトナム料理店、イスラム横丁などが軒を連ね、多種多様な人種が暮らす新大久保という街。新宿からほど近い都心部になぜこれほど多くの外国人が集うようになったのか。
ライターの室橋裕和氏が実際に新大久保で暮らしながら、外国人たちの生活に迫ったノンフィクション『ルポ新大久保 移民最前線都市を歩く』(辰巳出版)を引用し、新大久保の歴史を解き明かす。(全2回の1回目/後編 を読む)
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小泉八雲、内村鑑三……名だたる文化人も住んだ大正時代
明治末期から大正時代、大久保にやってきた「よそもの」は、文学者たちだった。島崎藤村は『破戒』を大久保で書き上げ、国木田独歩は住んでいた大久保の様子を『竹の木戸』の中で活写している。ほかにも『次郎物語』で知られる下村湖人は百人町の住民だったし、幸徳秋水も一時期だが百人町に暮らしていた。
そして小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は晩年、大久保に住み続け、この地で亡くなった。その終焉の地のそばは「小泉八雲記念公園」として整備され、イケメン通りの近くに静かに佇んでいる。彼の生まれ故郷ギリシアをイメージした庭園なのだそうだ。
文学者だけでなく、この頃の大久保は雑多な人材の宝庫だった。内村鑑三などの宗教家、経済学者であり社会主義者の山川均、洋画家の正宗得三郎……彼らがこの街に暮らした理由のひとつは、近くに早稲田大学(前身・東京専門学校)があり、教育機関や書店など知的コミュニティが多かったことがあるだろう。そしてもうひとつは、新宿の巨大化だ。際限なく膨張し、混雑を極め、空気が淀み、乱れていくばかりの大都市を嫌い、それよりやや郊外に住むことが人気になったのだ。新宿から近いわりに、物価も安く、まだまだのどかな街だった大久保は格好の場所だった。鉄砲同心百人が残した住宅地もある。そこへ、文学者はじめ知識階層の人々が住みついていく。新宿に次々とできる新興企業に勤める会社員も増えていった。
その中には外国人もたくさんいたらしい。語学教師のイギリス人やドイツ人、スペイン人、さらにアメリカ人宣教師や、中国人や朝鮮人なども住んでいたという。また戦前には「日本のオーケストラの父」と呼ばれたドイツ人、アウグスト・ユンケルや、数多くの日本人ヴァイオリニストを育てたロシア人音楽家、小野アンナなどもやはりこの地で暮らしていた。
かの孫文も一時期、大久保の住民だったことがある。日本に亡命中だった彼は、支援者のひとりである実業家・梅屋庄吉が百人町に構えていた自宅で3年近く暮らしている。なお梅屋はその後、日活の創業者となっている。
大都市・新宿の後背地であり、多種多様な人々が常に流れてくる街。大久保のそんな性格は、
大正期にはっきりと形成されたのかもしれない。