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【NHK過労死】両親が初めて語った「NHKへの不信感」と「亡き娘への思い」〈会見詳報〉

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 未和が亡くなって4年経ちますが、労基署による労災の認定後も、NHKから謝罪の一言もありません。社員の過労死にたいして、誰もお咎めなしということは、普通の会社や組織ではありえないと思いますが、NHKでどなたか責任を取られたのか、何か処分があったのか。私たちは何も知らされていません。

 未和の命日でさえ、今年は、私たちから連絡をするまで、NHKの職制からは無しのつぶてでした。なぜ今頃表に出すのかという私たちの気持ちをご理解いただけたら幸いです。

未和の勤務表を見たとき、私は泣きました

 次に、労災を申請した当時の私たち夫婦の心情です。

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 2013年10月に、渋谷労基署に正式に未和の労災申請を出しましたが、その中に、私の陳述書があり、最後のページに当時の思いを記しています。そのまま読ませていただきます。

〈未和が産まれたのは、私が31歳のときでした。結婚し、最初の子どもである未和が産まれ、人生今から、と高揚感に溢れていました。その同じ31歳で、未和は突然、この世から去ってしまいました。道半ばに達することもなく、人生を絶たれた未和の無念さ、悔しさを思うと哀れでなりません。

 親として、わが子を守ることができなかったという深い後悔の念に苛まれながら、なぜ未和が突然死んだのか、何か予兆はなかったのか、避ける手立てはなかったのかと、美和の遺影と遺骨に問いかける毎日です。

 私は未和からNHK入社後の最初の赴任地である鹿児島、その後に異動した首都圏放送センターでの記者としての気分はどういうものか、よく聞かされていました。機械メーカーで長年営業に携わってきた私のような一般の会社員の感覚からすると、24時間臨戦態勢のような記者の勤務は、肉体的にも、精神的にも「過酷」の一語につき、生活も不規則で、あの小さな体でよく頑張っているなといつも感心していました。

 未和はハードな生活にほとんど弱音を吐かず、周囲も優しく接しながら、自分で選んだ仕事に誇りを持って、記者としてのキャリアを一歩一歩積み上げていました。私は未和にエールを送りながらも、一方で、未和が記者という仕事に、必然的に伴う不規則な生活を長いあいだ続けることで、身体や健康が蝕まれることを、親として非常に心配していました。未和には会うたびにわが身の健康第一、命よりも大事な仕事などこの世にはないことをくどいほど伝えてきたつもりです。

 そのため、未和も自分の身体や健康には留意していましたが、これまで酷使してきた身体には、澱のように疲労が蓄積していたのだと思います。NHKが総力を挙げた平成25年の夏の都議選、参議院選の選挙取材では、未和は都庁クラブで一番の若手であり、独身で身軽なため、それこそ寝る間を惜しんで駆け回っていたようです。

 後日、NHKから提示された未和の勤務表を見た時に、私は泣きました。待ったなしの選挙取材で、時間に歯止めがなく、土曜も日曜もなく、ほとんど連日深夜まで働いており、異常な勤務状況でした。疲労困憊していようが、体調が悪かろうが、途中で戦線離脱などできるはずもなく、自分の身体に鞭打ちながら、とにかく選挙が終るまで、突っ走るしかなかったのかもしれません。

 これまで、無理を重ねてきた身体に、夏の選挙取材中の過剰勤務が決定的なダメージを与えたのではないかとの思いを、拭いきれません。未和は短い人生を駆け抜けるようにして逝ってしまいましたが、親として、未和の急死をもたらしたものが何であったのかを知りたい、今年(※当時)の夏の異常な勤務時間との因果関係を明らかにしたいという一念で今回労災申請をすることを決意しました〉。

©iStock.com

毎日のたうち回るような日々が続いた

 次に、未和の急死の連絡を受けたときの私たちの状況です。

 未和が亡くなった2013年7月24日当時、私はブラジルのサンパウロに駐在していましたが、9月の早々には正式に帰任が決まっていたために、後任への引継ぎや挨拶回りなどに追われていました。現地時間の7月25日の午後2時半頃、日本時間の7月24日の深夜2時半ですが、首都圏放送センター・都庁クラブのキャップの方から、私の携帯に直接電話があり、未和死亡の連絡が入りました。