最近、アナーキズムにあらためて関心が高まっている。混迷の時代の反映なのか、関連書籍が出版され、今回の事件の関係者である伊藤野枝を主人公にしたテレビドラマが放映されて注目された。

 取り上げるのは、そのアナーキズムの大スターだった大杉栄が愛人に首を刺された事件。発生場所や当事者の名前をとって「葉山事件」「神近事件」「大杉事件」とも呼ばれた。

 愛人とは元東京日日新聞(東日=現毎日新聞)記者で戦後は国会議員として活躍した神近市子だった。大杉は“自由恋愛”を標榜して妻・保子のほかに市子、さらに辻潤の妻の野枝とも関係を持ち、四角関係に。その果ての刃傷事件にメディアはこぞってセンセーショナルに報道した。

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 野枝と市子は日本の女性解放運動の草分けのグループ「青鞜社」の仲間で「新しい女」と呼ばれた。保子も機関誌「青鞜」に寄稿したことがあったが、女性として三者三様の生き方、考え方を持っていた。

 大杉は命を取り留め、市子は服役したが、その4人の愛憎がどうして殺人未遂事件にまで至ったのか。そして、世間は事件をどう受け止めたのか。当時の新聞記事を適宜現代文に直し、文章を整理。今回も差別語、不快用語が登場するほか、敬称は省略する。

「鋭利なる刃物をもって頸部を突き立てられ…」

 事件の第一報は1916(大正5)年11月9日発行10日付夕刊から10日付朝刊にわたって各紙に報じられた。見出しを比べてみよう。

▽女文士神近市子、社會(会)主義者の大杉榮を殺す 葉山の活劇=犯人神近は遁(逃)れて自首(報知)

▽伊東野枝子の情夫 大杉榮斬らる 加害者は情婦神近市子(萬朝報)

▽大杉榮情婦に刺さる 被害者は知名の社會主義者 兇行者は婦人記者神近市子 相州葉山日蔭の茶屋の惨劇(東京朝日=東朝)

▽神近市子、情夫なる大杉榮を刺す 相州葉山の旅館に於(おい)て 野枝と榮の情交を妬(ねた)んで(東京日日=東日)

▽大杉榮、神近市子に刺さる 葉山日蔭の茶屋で―昨暁二時 卍(まんじ)に縺(もつ)れた新しい女同志の痴情(國民)

▽社會主義者の大杉榮が 新しい女神近市子に斬(きら)れた 相州葉山日蔭の茶屋の椿事(ちんじ=珍しい出来事)(都新聞)

 都新聞の見出しが、長いが最も分かりやすい気がする。報知(9日発行10日付夕刊)は、本文では「刺し殺されんとした」としており、見出しの「殺す」は誤り。他紙も事実関係に不正確な点があるうえ、「情婦」「情夫」など、いまの感覚からは懸け離れた表現が目立つ。

 各人の知名度の判断を含め、事件の性格をどう捉えるかで迷ったことが分かるが、報道は冒頭からかなりセンセーショナルだった。比較的現在の事件記事に近い東日(10日付朝刊)の記事は――。

 9日午前2時半、相州葉山堀内、日影旅館、角田庄右衛門方奥2階二十番八畳の客室において、東京市四谷区南伊賀町41、社会主義者・大杉栄(32)がその情婦である牛込区神楽町1ノ1、森田方同居、神近市子(29)のために鋭利なる刃物をもって頸部を突き立てられ、生命危篤に陥れる椿事があった。

日蔭茶屋事件の発生を伝える東京日日

 これが書き出しで、記事は犯行までの詳しい事情を記す。