アナーキズムを掲げて「思想の世界」で注目を集めた大杉栄が愛人に刺された1916年の日蔭茶屋事件。大杉は“自由恋愛”を標榜して妻・保子のほかに神近市子、さらに辻潤の妻の野枝とも関係を持ち、四角関係にあった。

 4人の愛憎は、どうして殺人未遂事件にまで至ったのか――。

大阪毎日に載った市子の手記

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「野枝、殴り倒さる」

 11月10日朝、市子は逗子駅発の列車で横浜の根岸監獄に護送された。手錠ははめられていなかったという。自分で髪を切ったらしく、結び玉を作った「女優髷(まげ)」に和服姿だった。千葉病院に入院した大杉は容体が安定。全治3週間程度と診断された。

 ただ、病床ではひと騒動があった。10日発行11日付報知夕刊には「野枝宮島某に毆(殴)らる」の見出し。記事によると、付き添った野枝は10日午前遅く、病院近くの荒物屋に出かけ、茶わんや行火(あんか)などを買い込んだ。

「病院へ戻ると、玄関に大杉の友人、宮島祐雄(資夫の誤り)が憤怒の形相で突っ立っている。野枝は何とはしらずたじろいだ。その虚に乗じて宮島は『貴様がっ』と一喝して突き飛ばした。野枝は携えた傘をばたり落として入り口に転げた」

 警備の警官に助けられて野枝は大杉の病室に逃げ込んだが、後を追ってきた宮島は野枝の腰を蹴り、大杉と野枝に言った。「貴様らは真の恋を解せないんだ。神近を欺いて監獄にやったのは貴様らだ」。

市子の護送と野枝が殴られたことを報じる報知

 この“事件”は他紙の11日付朝刊にも載っている。「野枝毆り倒さる」(東朝)、「野枝を毆り倒す」(時事新報)、「伊藤野枝毆らる」(都新聞)。記者には「ざまあみろ」という感情があったのではないか。宮島もアナーキストで大杉の古くからの友人だったが、これ以降離れていく。

 同じ日付の読売には、大杉の「僕が野枝のみを愛して自分を疎外するものと誤解した結果、刃物ざんまいに及んだので、いかにも僕の主義を了解しているようでも、徹頭徹尾女は女である」という談話が載っている。「自由恋愛が理解されなかった」という強弁なのだろう。

 一方、時事新報には「うるさく嫉妬がましいことを言いましたから、私は少し強硬にはねつけましたからムッとしたのでしょう。モー少し優しく言っていれば、こんなことにはならなかったのでしょう」という弁解が見える。

孤立していく2人

 この事件をきっかけに大杉と野枝から距離を置くようになったのは宮島ばかりではなかった。11月16日付東朝朝刊社会面コラム「青鉛筆」には次のような記事が。

「大杉は退院後も野枝とともに当分同地にあって静養するそうだが、その後、社会主義者の主だった者は1人も大杉の病床を見舞う者はないありさまである。のみならず、大阪方面の同主義者らしい人たちから頻々と大杉及び野枝に対し激烈な書簡を寄せてくるので、葉山署ではそれぞれ警戒している」