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終戦、75年目の夏

「これはうまい。お代わりだ」硫黄島激戦の裏で、日本軍将兵はなぜ“アメリカ人将校の肉”を食べてしまったのか

なぜ日本兵は“人肉食”を求めたのか #2

2020/08/16

アメリカ人捕虜を殺してその肉を食べた…… “狂気の宴会”が行われた「父島事件」とは>より続く

 父島関係で出廷した証人は堀江少佐ら40人。捕虜を斬殺した1人の伊藤喜久二中佐は「I中佐」として証言要旨が「小笠原兵団の最後」に載っている。

「肝を食い、必勝の信念の養成に処すべし」

「硫黄島の上陸前夜、2名の捕虜が届けられた。(立花)少将はこの捕虜に猛然と襲いかかった。真鍮のステッキで胴腹に2つずつ打撃を与え、高級副官H(東木誠治大尉)に命じ、司令部前の松の木を背にして針金で首から足まで縛らせ、『この畜生めらが戦友を殺したのだ、見せしめに殴れ、蹴れ、そして憎め』とどなり散らした」「2、3日、捕虜は生きていた。Tは将校の会食で試し切りの希望者はないか、剣のすごみを披露するチャンスだと言った。副官のH大尉が『中佐殿、あなたは剣豪です。閣下の命令です』と言うので、不承不承このIが切ることになった。第307大隊の地区で大勢監視の前で切ったが、自分としてはいい気持ちはしなかった」。

立花芳夫中将 「父島人肉事件」より

 伊藤中佐は高級将校の養成機関である陸軍士官学校(陸士)で東条英機元首相と同期の17期。軍人としては高齢だったが召集されていた。

 立花中将や的場少佐の人格に関する証言も。立花中将の当番兵だった元上等兵は「日頃、銭形平次の捕物帳を読んでいた。酒飲みで、よくメモを書き、主計(会計などを取り扱った軍人)のところへ酒買いに行かされた。一升ビン2本をもらってくると自室に置き、飲んだ分量をよく知っており、少しでも失敬するわけにいかなかった。われわれ兵隊を卑しい者と見ていばりくさり、思いやりなどさらさらなかった。私は彼から下劣な成り上がり者という感じを受けた」(同書)。

 それ以上に評価が低かったのは的場少佐。捕虜を殴打し、その後刺殺させた部下の中島昇・大尉も「小笠原兵団の最後」に「N大尉」として証言が載っている。「少佐は六尺近い大男で剣道が強く、酒乱で碁が上手であった。兵隊に小豆を与え、酒は俺が飲むということで、兵隊の恨みをかった。また兵の前で将校や下士官を殴り倒すこともしばしばあった。捕虜はこれを将兵の前でぶった斬り、その肝を食い、必勝の信念の養成に処すべしという方針を持っていた。中隊長としてこれにさからうことは不可能であった。私が捕らえた捕虜はけがをしており、放っておいても死ぬ運命にあった。私は確かに鞭(むち)で殴り殺したが、それは大隊長の方針に沿ったものである」。中島大尉も応召の軍人だった。

あまりの衝撃にアメリカでは「記事の掲載が禁止」

「立花中将の当番兵はほかにも2人いたが、彼らが口をそろえて人肉を供した酒宴の様子を語り、特に中将が『これはうまい。お代わりだ』と要求したくだりになると、法廷は水を打ったようにシーンとしてしまった」(「父島人肉事件」)。記事によると、凄惨な証言が続き、米軍新聞「グアム・ニュース」は「カニバリズム」(人肉喫食)という大きな見出しを付けて連日のように裁判の経過を報道した。「20世紀の今日でも日本人は人肉を食う」というような見出しの下に被告の写真が載っていた。