エリート軍人に対する怨嗟や羨望
堀江芳孝少佐は「酒席に出ないため『悲観参謀』『腰抜け参謀』『陸大出は戦争に弱い』などの罵詈讒謗に耐えなければならなかった」と「父島人肉事件」に書いている。そこには、陸士、陸大(陸軍大学校)卒という当時のエリート軍人に対する非エリート層からの怨嗟や羨望があった。
実は父島の陸軍トップである立花中将も、人肉食を主導した的場少佐も陸士は出ているが、陸大は出ていない。硫黄島で対面した際、栗林中将は堀江少佐に「父島を立花少将あたりに任せるわけにはいかない」と語っている(同書)。栗林中将も堀江少佐も陸士・陸大卒。そこにエリート同士の自負があったことは間違いない。
さらにいえば、陸士の卒業年次は栗林中将の26期に対して立花中将は25期。騎兵専攻の栗林中将はアメリカ駐在や陸軍省馬政課長などのポストを歴任するかたわら、軍歌の歌詞の公募で「愛馬進軍歌」「暁に祈る」の〝生みの親〟になるなど華々しく活躍したのに対し、歩兵科の立花中将にはこれといって目立つ経歴はない。陸軍の序列ではその1年後輩の下にいることに鬱憤がなかったとは思えない。
「七三一」創始者や「作戦の神様」に憧れて
さらに決定的だったのは、個人のキャラクターだろう。この事件の登場人物には「酒乱」が多いが、特に的場少佐だ。堀江少佐は「父島人肉事件」で書いている。
「(昭和)19(1944)年8月半ばに、シンガポール攻略戦の大隊長で軍医学校の戦術教官に転じていた的場少佐が308大隊長として着任していた。すぐに(立花)旅団長と飲み仲間となり、『おやじ』『おぬし』の呼び名で、この酒乱同士は部下の悪口もよそに朝から晩まで酒宴また酒宴の連続。的場少佐は辻(政信)参謀を神様のように崇拝し、『敵の捕虜はぶった切って食え』とどなった。辻のやったマレー華僑3000名の殺害を礼賛し、シンガポール入場の歌を高らかに歌う」。中島昇・大尉もこう証言している。「Mはまた軍医学校で戦術教官をやり、細菌で捕虜をモルモット代わりに平気で殺すI軍医中将(細菌戦部隊「七三一」の創始者で初代部隊長の石井四郎・軍医中将)の影響を受けていたと思われる」
辻政信・陸軍大佐(最終階級)は「昭和の35大事件」の「ノモンハンの敗戦」で取り上げたが、大向こうをうならせるような派手な言動と強気一辺倒の作戦指導で知られた。彼を「作戦の神様」と呼ばせたのは太平洋戦争開戦直後のマレー電撃作戦だった。シンガポール陥落の際は、大量の反日華僑粛清を企画、実現したとされる。その言動を間近に見ていて憧れ、自分も同じような言動を実践したということだろうか。そこに「七三一」の「DNA」までも紛れ込んでいたとは……。
さらに、辻には父島事件ともつながるような話題がある。