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東条首相が発した「戦陣訓」の裏返しの悲劇だった

「明治維新以降、日本軍は、日本の国際的地位向上の見地から国際法と欧米での戦争慣習の受容に努めた。1899年の第1回ハーグ平和会議で調印された『陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約』も、日本は翌年直ちにこれを批准した」と小田部雄次・林博史・山田朗「キーワード日本の戦争犯罪」は説明する。「日本は、日露戦争や第1次世界大戦では、ロシア人捕虜やドイツ人捕虜を人道的に扱った」「ただ一方で、中国人捕虜については、日清戦争の時に旅順で大量虐殺するなど、一貫して過酷な扱いをしている。つまり日本は、不平等条約を撤廃し、大国の仲間入りをするために、欧米に対しては国際法を守る姿勢を見せたのである。しかし、大国になると、その姿勢を変えてしまった」(同書)

 1929年、「俘虜の待遇に関するジュネーブ条約」が調印され、日本政府も調印したが、軍部が「帝国軍人の観念よりすれば、俘虜たることは予期せざるもの」と強硬に反対したため、批准できなかった。「国粋主義の台頭を背景として、英米的価値観の国際法の有効性と捕虜になること自体を認めない傾向が、昭和初頭より強まった」(同書)。1941年1月、東条英機陸相名で出された「戦陣訓」の「生きて虜囚の辱(はずかし)めを受けず、死して罪禍の汚名を残すことなかれ」という一節は、その考え方の帰結であり、大戦中の多くの「玉砕」や民間人の集団自決などの悲劇を生み出す原因となった、と同書は言う。

開戦を国民に告げる東條英機 ©共同通信社

 父島事件で死刑となった中島昇・大尉はグアム島での裁判中、堀江少佐にぼろぼろ涙を流しながらこう訴えたという。

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せめて終戦前に戦死したかったです。何とかさかのぼって戦死扱いにしていただけないでしょうか。家族が聞くとどんなに悲しむか分かりません。私だけが捕虜に残虐だったのでしょうか。捕虜になると国賊扱いする日本国家の在り方が外国捕虜の残虐へと発展したのではないでしょうか。捕虜の虐待は日本民族全体の責任なのですから、個人に罪をかぶせるのは間違っていませんか。私は死んでも死に切れません。私は国家を恨んで死んでいきます

「小笠原兵団の最後」より

 確かに、捕虜になることを絶対に許さないとする精神風土が、捕虜に対する人道的な処遇を許さなくなるという流れは一面で分からなくはない。しかし、人肉食はまたそれとは明らかに違う、一線を画した問題ではないか。

「必要に迫られてではなく、自ら好んでこの恐ろしい慣行にふけった」

「人肉事件の父島から生還したブッシュ」は「カニバリズムが連合軍の法廷で裁かれたのは父島事件だけであり、それも飢餓という極限状況下の事件でなかっただけに人々を驚かせた」と指摘。東京裁判担当だった朝日記者・野村正男「平和宣言第一章 東京裁判おぼえがき」は、父島事件を知った衝撃からか、こう書いている。

「太平洋戦争の末期になって、日本の陸海軍は人間の肉を食べるほどまでに落ち込み、不法に殺害した連合軍捕虜の体の一部を食べた。ときには、この敵の肉を食することは、将校宿舎における祝宴のようなものとして行われた。陸軍の将官や海軍の少将の階級を持つ将校でさえもこれに加わった。殺害された捕虜の肉、またはそれによって作られたスープが日本の下士官兵の食事に出された。証拠によれば、この人肉嗜食は、ほかに食物がある際に行われたことが示されている。すなわち、このような場合には、必要に迫られてではなく、自ら好んでこの恐ろしい慣行にふけったのである」。

 まさに尋常ではない。そこには何があるのか。