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福知山線脱線事故から13年 ある2人の社長の「懊悩」と「決断」

JR西日本と日本スピンドル製造

2018/04/25

 高倉健、タモリ、浅田真央、サザンオールスターズ……、こうした国民的スターとならんで「菊池寛賞」の歴代受賞者に名を連ねる製造業の会社がある。日本スピンドル製造株式会社だ。2005年4月25日に起きた尼崎脱線事故で、社員約230人による組織だっての救助活動を評価されての受賞であった。

死者107名・負傷者562名の事故

 JR福知山線の快速電車は、脱線した勢いで線路沿いのマンションに突っ込んで1両目・2両目が潰れるなどして、死者107名・負傷者562名の事故となる。後述する松本創『軌道』(東洋経済新報社刊)に登場する死傷者は、財布の中のコインが折れ曲がるほどの衝撃を受けるのだった。

2005年4月25日に起きた福知山線脱線事故現場 ©共同通信社

 事故当時、指示を待つのか、付近で待機し続けたJR西日本の社員たちとは対照的に、機転を利かせて自ら動いた一般のひとたちが注目された。踏切の非常ボタンを押して約100メートル手前まで迫った特急電車に事故を知らせた通りがかりのひとや、救助活動を果敢におこなった近くの会社などの従業員、近隣住人といったひとたちである。当時の新聞には「作業着を着たおじさんが救急隊より早く来た。仲間の人たちに指図して、救助に邪魔なフェンスを切り、がれきをどけて、飛び散ったガラスを掃いてくれた」(注1)との負傷者の証言が残っている。

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 この「現場」に、「200人以上の社員を一気に救援に出せるのはうちだけ」(注2)と社員を向かわせたのが、くだんの日本スピンドル製造の社長・斎藤十内である。事故の衝撃音を聞いて、すぐに事故現場に駆けつけた社員らは救援活動をはじめるが、しかしまるで人数が足りないからと斎藤のもとに走り、現場を見るよう乞う。そして助けを待つ無数の負傷者の姿を見た斎藤は工場の操業を止める決断をし、社員を救助活動に向かわせるのであった。