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終戦、75年目の夏

アメリカ人捕虜を殺してその肉を食べた…… “狂気の宴会”が行われた「父島事件」とは

アメリカ人捕虜を殺してその肉を食べた…… “狂気の宴会”が行われた「父島事件」とは

なぜ日本兵は“人肉食”を求めたのか #1

2020/08/16
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 今年は戦後75年。コロナ禍にまぎれながら、戦争を振り返る報道もいくつか見られる。今回取り上げるのも戦争絡みだが、正直に言って、書きながらも気が重たくなる。それはテーマが“人肉食”という、普通の時代の普通の感覚ではあり得ない出来事だからだ。

 太平洋戦争末期の小笠原・父島で、墜落して捕らえられたアメリカ人パイロットを殺害し、その肉を食べたという、文字にするのもおぞましい出来事。戦争中とはいえ、どうしてそんな非人道的なことができたのか。探っていくと、やはりそれは、その時代の空気や、その時代に生きた人々の心理と切り離しては考えられないことが分かる。その点にポイントを置いて事件を追ってみよう。

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「私のための宴会で初めて飛行士の人肉が試食された」

 この事件に関する新聞記事は極端に少ない。その中で、戦後間もない1947(昭和22)年1月14日の東京朝日(東朝、この時期は各紙とも朝刊のみ2ページ立て)2面3段、1946年5月3日に開廷した日本の戦争責任を裁く極東国際軍事裁判(通称東京裁判)の公判内容を報じた「東京裁判」のワッペン付き囲み記事を見つけた。

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 前年12月から日本軍によるアジア全域での残虐行為の立証が集中的に進められ、年明けからは捕虜虐待事件が広範に取り上げられていた。「父島事件」もその1つだったようだ。記事の見出しは「會(会)食に米飛行士の人肉試食 的場少佐の『父島の残虐』尋問書」。的場少佐とは、父島駐屯の独立混成第一旅団に所属する独立歩兵第308大隊長・的場末勇陸軍少佐のことだ。

記事の見出しには「人肉試食」とある 1947年1月14日東京朝日新聞より

問 同島(小笠原父島)最初の人肉試食事件は?
 

答(=的場末勇陸軍少佐) 昭和20(1945)年2月23日、米飛行士処刑の報告を橘将軍(陸軍少将)に行った際、私のための宴会で初めて飛行士の人肉が試食された。それは、橘将軍が第307大隊司令部に電話で甘藷(イモ)酒1斗と肉を届けるよう命じた。肉は加藤大佐の部屋で料理された

 

問 人肉であることを知っていたか?

 

答 そうだ

 

問 どのくらい届けられたか?

 

答 約5、6ポンド(約2.3~2.7キロ)だ
 

問 肉を食べ尽くしたのか?

 

答 皆2、3片かほんの1片食べただけで、大部分は残された

 

問 戦争終了前、井川大尉が人肉を食べたことを自慢し、人肉1片を食べれば、十人力の戦闘精神が生ずると言ったのを聞いたか?

 

答 いいえ

 

問 橘将軍は、死刑の執行が済んだ捕虜は全てこうするのだと言ったか?

 

答 そうだ。昭和20年2月、師団司令部の会議で、橘将軍は食糧、弾薬は欠乏し、遂には戦死した戦友まで食べねばならなくなるだろう。敵兵の肉は食わねばならぬと言った

 

問 橘将軍は、捕虜とした飛行士は皆死刑にし、これを食うことを方針としたとか、大本営(戦時中の陸海軍統帥機関)の命令であるとか言ったか?

 

答 大本営のことは知らぬが、将軍が言ったのは確かだ