戦犯を逃れようと「烈士は猫の前のネズミに変わった」
それから敗戦を迎えて、状況は一変する。「父島人肉事件」は「至る所でヒソヒソ話が広がった。彼らは戦犯をいかに逃れるかに関心を集中していたのである。『捕虜をぶった斬れ。その肉を食え』と怒鳴り、殺した捕虜の体から肝臓と肉を取り出して祝宴に興じた烈士は猫の前のネズミに変わった。自らの大言壮語に酔っていた連中が、いまや顔面蒼白、命乞いだけしか考えぬ匹夫(凡庸な男)と化した」と書いている。
堀江少佐は立花師団長と海軍父島特別根拠地隊司令官の森国造・海軍中将と会談。捕虜の処遇について確認し、「アメリカ軍の爆撃によって防空壕で全員爆死した」というシナリオを作って口裏を合わせることにし、的場少佐の指揮で「捕虜の遺体を焼いて埋めた」墓地まで造ったという。
「天人共に許さない残虐行為を行った」
しかし、1945年9月の正式降伏後、10月に進駐してきた米海軍は、表面的には友好的だったが、調査担当将校が復員していった元兵士らから証言を集め、事実関係の裏付けを進めていた。1946年2月初め、アメリカ軍幹部はピクニックと称して堀江少佐を野外に連れ出し、1通の手紙を見せた。それは、復員が遅れていた第308部隊員有志の「捕虜爆死の話は作り話で、一部の者が彼らを殺したのであります」という嘆願書だった。堀江少佐も事実を認め、立花中将らは次々逮捕された。
「たちまち立花、的場に対する憎悪と怨嗟の声が父島一帯に満ちた。『俺たちの酒を、あの畜生めが飲んじゃったのだ。俺は三度も殴られた。階級ででけえ面しやがって、人間じゃないんだよ。畜生なんだ……』という式で、驚いたことに、捕虜虐待の件はどこへやら、自分たちが受けた被害に関連して、日頃の両人の低劣さに集中砲火が浴びせられた」と「父島人肉事件」は記している。
グアム島での軍事裁判は1946年5月から9月までアメリカ海軍によって開かれた。被告は父島関係で立花中将ら25人。起訴状はこうなっていた。
「1944年6月15日、アメリカ海軍が父島と母島を初空襲した時に2人、同年7月と8月に3人、翌年2月16日と17日に5人の計10人のアメリカ人搭乗員が日本軍の地上砲火によって撃墜され、いずれも落下傘で脱出に成功したが、日本軍に全員逮捕された。うち2人は日本内地に送られたが、残る8人は軍事裁判にかけることなく、殴打、軍刀による斬首、銃剣刺突などの方法で殺害したうえ、一度は地中に埋めた遺体を発掘し、天人共に許さない残虐行為を行った」