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終戦、75年目の夏

2020/08/16

「大隊は米軍飛行士ホール少尉の人肉を食せんと欲す」

この日の朝、私は部隊長室へ呼ばれた。的場部隊長はこう言った。「本日の午後、捕虜を処刑することになっているが、今夜もまたお前にキモと肉を切り取ってもらいたい。そしてそのついでに、教育中の補助衛生兵たちに解剖を見学させてやれ」。今回は部隊長直々で私に命じた。心ならずも命令に従うほかなかった。

 

全てを悟ったホール少尉は、さきほどの陽気な影は全く消え失せ、蒼白な顔面には悲痛の色がみなぎっていた。現場には既に穴が掘られていた。彼はその穴を前にして座らされた。自分の墓穴を目の前にした彼の心境はどうであったろう。本部付きの中村伍長が捕虜の背後に立ち、曹長刀を振りかぶって気合いもろとも切り下ろした。見事に皮一枚残して首は切断され、捕虜は前のめりに倒れた。

 

その夜、308大隊の全将校は防空壕内の部隊長室に召集され、大宴会が催された。ホール少尉の試食が目的であることはいうまでもなかった。「出席せよ」という部隊長の命令が届いた。満員といってよい室内では、いまや酒宴はたけなわであった。

 

部隊長はすぐに私を彼の右隣りの席に招いた。私が座ると、彼ははしで挟んだものをいきなり私の口の中に押し込んだ。「はっ」と思ったが、吐き出せばどんな難題を吹きかけられるか分かったものでない。私はそっとかんでみた。鶏のモツのような味がした。例の肝臓だなと思うと、どうしてもそれ以上かみ続ける気にはなれなかった。口の中でしばらく転がして、いかにも食べたようなふりをしてから便所に立った。そして口の中の物をすっかり吐き出し、そのまま自分の部屋へ帰って寝てしまった。遠くから聞こえる酒宴の音は、不愉快さに拍車をかけた

「告白の碑」=「父島人肉事件」所収

 この時、いかにも奇怪な命令が口頭で出されている。的場少佐が記憶を書き留め、グアム島裁判の証拠として提出された。「極東国際軍事裁判審理要録第5巻」に載っている。

【米軍飛行士の人肉を食することに関する命令】
1.    大隊は米軍飛行士ホール少尉の人肉を食せんと欲す
2.    冠中尉は配膳を担当すべし
3.    坂部見習軍医は処刑の現場に立ち会い、肝臓と胆嚢を遺体より切除すべし


大隊長 的場末勇少佐
1945年3月9日午前9時

 まともな神経とは思えないが、これが戦争なのか。

アメリカ人捕虜を日本刀で斬殺して……

 日本弁護士連合会の会長を務め、2009年に死去した土屋公献氏は学徒出陣で海軍予備学生となり、1945年1月、父島駐屯の第2魚雷艇隊に配属された。2008年に出版した自伝「弁護士魂」でその時のことを書いている。「私が小笠原で体験した最も残酷だったものは、アメリカ兵捕虜の処刑であった」。その捕虜はヴォーンという中尉だった。

海軍予備学生時代の土屋公献氏(「弁護士魂」より)

 梯久美子「父島人肉事件の封印を解く」(「文藝春秋」2007年7月号所収)によれば、捕虜になったのは、米軍の硫黄島上陸5日目の1945年2月23日。年齢を聞くと、土屋氏より1歳上の満22歳。「母一人子一人で、母親は首を長くして帰るのを待っている」ということだった。

「土屋は剣道2段だから、その捕虜を日本刀で斬れ」と命令された。仕方がないと覚悟していると、処刑前日、「俺がやる」と申し出たのが同じ学徒兵で魚雷艇隊の小山という少尉。「剣道4段、腕前は私よりはるかに上だった」。次の日、当直将校だった土屋見習士官はヴォーン中尉を処刑場まで連行。一部始終を見た。「彼はものの見事にバッサリやった。斬った瞬間、座っている捕虜の首が前にブラっとぶら下がって、血を噴き出してバタリと後ろに倒れた。途端に、見物していた兵隊たちから拍手喝采が沸き上がった」(「弁護士魂」)

 遺体は軍医が解体。「肝臓と肉は海軍の厨房で調理され、その夜、食堂で将兵に供された」と「父島人肉事件の封印を解く」は記述。1945年3月17日のことだとしている。「この日の夜、吉井大佐が『敵の肉を食らうくらいの気概がなくてどうする』と部下たちに捕虜の肉をふるまっていた。ちょうどその頃、硫黄島では、最高指揮官・栗林忠道中将が、部下たちと別れの盃を交わしていた」(同記事)