「橘将軍」は独立混成第一旅団長の「立花(芳夫)将軍」の誤り。「加藤大佐」は同旅団所属の独立歩兵第307大隊長・加藤武宗大佐、「井川大尉」は同大隊の井川繁雄大尉のこと。この尋問調書は1946年、トラック島など他の太平洋地域の戦争犯罪と合わせてグアム島で行われた戦犯裁判の検察側資料だった。それにしても、敗戦から1年5ヶ月。空襲で破壊され荒廃した街で、その日食べる物もなく生きるのに精いっぱいだった多くの国民にとって、こうした事実は全く初耳だっただろう。「戦争中にこんなこともあったのか」と驚いたのは間違いない。そのうえでどう受け止めたのだろうか。同じ日付の毎日新聞にも「東京裁判」のワッペンで「海上捕虜 虐待立証終わる」の見出しの記事がある。
短い記述だが「特に、父島における捕虜の人肉を食った一件は聞く者の心を寒からしめた」とあり、記者の受けた衝撃の大きさをうかがわせる。国士館大学法学部比較法制研究所監修「極東国際軍事裁判審理要録第5巻」には、的場少佐の供述内容として、立花少将に報告に行った際のことがこう書かれている。「その折に酒が振る舞われ、話題がブーゲンビルやニューギニアの友軍のこと、補給を断たれた部隊が人肉を食していたことなどに及んだ。そこに第307大隊本部から電話があり、加藤大佐から立花少将と自分が宴会に招かれた」。
非人道的すぎて戦友会がその事実を否定しなかった?
もう1つの記事は同年9月26日付東朝1面「東京裁判」の末尾に加えられた「立花元中将ら五名絞首刑」の小さな記事。パールハーバー(ハワイ)24日発AP電を共同通信が配信した。「グアム島駐留日本軍司令官・立花芳夫陸軍中将をはじめ的場スエオ(末勇)元少佐、田中マサハル元大尉、ヨシイシズヤ元大尉(吉井静雄・元大佐の誤り)、井川タダオ元グアム島警察署警視の5名が戦時中グアム島で米人捕虜を拷問・虐殺したうえ、その肉を食した罪により23日、グアム島で絞首刑に処せられたと米海軍当局から24日発表された」。
実際は、記述された5人のうち「田中マサハル」「井川タダオ」はグアム島裁判での別の事件の罪で、立花、的場、吉井の3人が父島事件での罪で死刑判決を受けていた。同事件ではほかに独立混成第一旅団司令部の伊藤喜久二・陸軍中佐と、第308大隊機関銃中隊長の中島昇・陸軍大尉の2人が死刑判決を受けて同年6月に処刑されていた。
極東国際軍事裁判は、東条英機・元首相ら「平和に対する罪」などを問われた主要A級戦犯が東京・市谷で、通例の戦争犯罪や人道に対する罪に問われたBC級戦犯が横浜やアジア各地で裁かれた。それには「特色は、戦勝国による懲罰的裁判の色彩を帯び、客観公平性に欠けるという印象を与えたことである」(「日本近現代史辞典」)ともいわれた。
その中でこの父島事件が特異なのは、人肉食という非人道的な戦争犯罪であるうえに、戦友会がその事実を否定しなかったと思えることだ。1969年に出版された小笠原戦友会編「小笠原兵団の最後」に「人肉食」の言葉は出てこないが、捕虜殺害に留まらない残虐行為があったことを元将兵の証言で裏付けている。それは参謀だった堀江芳孝・陸軍少佐の存在が大きかったようだ。戦後は匿名で「小笠原兵団の最後」の記述の中心となり、「増刊歴史と人物」1984年2月号では実名で「父島人肉事件 師団長も食った」を書いている。
それらの資料を突き合わせても、犠牲になったアメリカ人捕虜1人1人の動向がはっきりつながらないところがある。それらを勘案して事件の流れをおさえてみる。