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終戦、75年目の夏

2020/08/16

「見せしめに敵兵の肉やキモでも食ってやろうじゃないか」

 的場少佐の供述にある、最初の人肉食事件の遺体解体を命じられたのは第308大隊付き軍医だった寺木忠・見習医官。北海道帝大(現北海道大)医学部出身で開業医だったが召集されていた。敗戦で帰郷したが、戦犯となっているのを知って逃亡。1948年に逮捕されてグアム島で裁判にかけられ、禁固4年の刑に。「父島人肉事件」には寺木の著書「告白の碑」の一部が収録されている。要約してみよう。

(2月23日、第308)大隊副官から「307大隊に行っている部隊長から電話があり、きのう処刑した捕虜から肉を1貫目(約3.75キロ)ほどとキモを取って大至急届けるようにと言ってきた。ただちに実施してもらいたい」(と命令があった)。

 

察するに(立花旅団長と的場大隊長は)昨夜から徹宵飲み明かし、余勢を駆ってきょうは2人で307大隊長のところへ押し掛け、3人で飲んでいるうちに、「硫黄島上陸作戦が始まってから、どうも士気が衰えたようだから、ここらで全軍を鼓舞する意味で、見せしめに敵兵の肉やキモでも食ってやろうじゃないか」と意見が一致したもののようだ。とんだ役目をいいつかったものだと思ったが、軍医はいまのところ私しかいない。ぐずぐずしていると、短気な部隊長のことだから、立腹のあまり、あとでどんなとがめを受けないとも限らない。「卑怯なやつは見せしめに死刑に処す」などと言いかねない男である。私は承諾した。

 

まさかこんなことになろうとは思ってもみなかった。きのうのきょうなので、埋葬した場所もすぐ分かり、土もまだ軟らかく、難なく掘り出すことができた。捕虜の顔はまだ若々しく、私には見覚えのある若いアメリカ兵であった。銃剣で突かせたらしく、胸にいくつもの突き傷があった。肉の方は軍曹に任せ、私は肝臓を取り出そうと右上腹部にメスを入れた。私が肝臓を摘出するのとほとんど同時に、兼森軍曹も左大腿部の中央あたりの肉を幅15センチぐらいの輪切りにして切り取った。優に1貫目以上はあったろう。彼はそれを硫酸紙に手早く包んだ。

「告白の碑」=「父島人肉事件」所収

 寺木軍医は2日後の2月25日、再び重い任務を負わされる。

「捕虜がいるぞ」という兵隊たちの騒ぎ声に外へ出た。部隊室へ通じる道のそばに、後ろ手に縛られた金髪の若いアメリカ兵が1人、うなだれて座っている。初めて見る顔だった。この日、各中隊長が部隊長室へ集合して昼の会食をしていた。酒が出たことは言うまでもない。

 

酔ったらしい機関銃中隊長の中島大尉が千鳥足で部隊長室から出てきた。父島のほとんどの将校がそうであるように、彼もタマナ(テリハボク。カヌーなどの材料になる堅い木材)の木で作った木刀型のツエを携えていた。一度殴り始めると、後はとめどがなくなるのが酒乱の特徴なのか。中島大尉は狂ったように乱打し続けた。捕虜は顔中血だらけになって倒れた。誰かが、死んでしまわないうちに、兵隊に銃剣で突かせようではないかと言った。中島大尉もそれに賛成した。

 

兵隊が2人がかりで左右から捕虜を抱きかかえながら、少し離れた空き地へ連れて行った。捕虜はもう1人で立っていられないので、彼をタコの木(小笠原諸島の固有種)に縛り付けた。本部の兵隊が数名、代わるがわる銃剣で突いた。捕虜は完全に絶命した。その時、副官が私に向かい、先日と同様にキモと肉を切り取るようにと言った。後日聞いた話だが、あの後、兵隊たちが死体の肉を勝手に持ち去ったため、死体はほとんど骨ばかりになったということだった。

 

「告白の碑」=「父島人肉事件」所収

※イメージです ©iStock.com

空襲でアメリカ軍捕虜が続出したのはなぜか

 1945年2月後半に捕虜が続出したのは硫黄島の戦いと直接関係している。

 2月16、17日の両日、アメリカ機動部隊艦載機は東日本各地を攻撃。さらに「2月17日から18日にかけて延べ456機、19日から27日の間に延べ300機が小笠原方面に来襲した」(防衛庁防衛研修所戦史室編著「戦史叢書 本土方面海軍作戦」)。2月19日の硫黄島上陸の前触れと援護のためだった。硫黄島はサイパン―東京間約2000キロのほぼ中間に位置し、日米両軍にとって戦略上の要地だった。爆撃は激烈で、対空砲火による撃墜などでアメリカ人飛行士らが捕虜となるケースも続出した。

「小笠原兵団の最後」は「やがてパイロットのメイ海兵大尉と副パイロットのホール海軍少尉がH(堀江少佐)の前に護送されてきた」と記述している。

 それからホール海軍少尉は堀江少佐の「英語教師」となり、二人は親しく交流していたが、そのうち再三の強い要請を断りきれず、身柄は第308大隊に引き渡された。処刑されたホール少尉の遺体解体を命じられたのは三たび寺木軍医だった。