『鉄腕アトム』、『ジャングル大帝』、『リボンの騎士』……数々の名作を遺した“マンガの神様”手塚治虫。その手塚が「週刊文春」で連載をしていたことをご存知だろうか。『アドルフに告ぐ』――第2次世界大戦前後の日本とドイツが舞台の大人向けのマンガであり、手塚の“最高傑作”と推す声もある。

 1983年~85年にわたって連載され、コミック累計450万部超えを記録する同作、手塚はどういう思いで描いたのか? 単行本発売から35年、『アドルフに告ぐ』の資料を読み解き、解説する。

(全3回の3回目/#1#2を読む)

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 東京・椎名町のトキワ荘といえば、1950年代から60年代にかけて、「マンガの神様」手塚治虫が住んで以来、彼を慕って、寺田ヒロオ、藤子・F・不二雄、藤子不二雄A、石ノ森章太郎、赤塚不二夫など当時の若きマンガ家たちが入居したアパートとして知られる。

 最近になって本来の所在地付近に復元されたトキワ荘だが、もとの建物は1982年12月1日、建て替えのため解体された。この日、元住人のマンガ家たちが一堂に集まり、別れを惜しんだ。手塚も多忙のなか駆けつけ、共同水道の前で記念撮影した写真が『週刊文春』1982年12月23・30日号に掲載されている。写真に付された記事では、新年早々から同誌で手塚の本格的長編マンガ『アドルフに告ぐ』の連載が始まるとも告知されていた。

7月に開館したトキワ荘の復元施設「トキワ荘マンガミュージアム」(東京都豊島区)。手塚治虫ら日本を代表する漫画家が青春時代を過ごした ©️山陽新聞/共同通信イメージズ
週刊文春(1982年12月23・30日号)でトキワ荘を訪れた手塚治虫

 手塚のチーフアシスタントを長らく務めた福元一義によれば、いつもは締め切りに遅れがちな手塚が、『アドルフに告ぐ』のスタートにあたっては、締め切りより数週間も早く原稿をあげたという。このとき、彼は前月からのオーバーワークがたたって発熱し、医師からは安静を命じられながらも、病床でほかの作品などとあわせて執筆を進め、12月17日には第1回、21日にはさらに第2回の原稿各10ページを脱稿している(※1)。これだけでも新連載への並々ならぬ思いがうかがえよう。

「ヒトラーにユダヤ人の血が流れている」という秘密文書

『アドルフに告ぐ』連載、初回は『週刊文春』1983年1月6日号に掲載された

 手塚にとって初めての一般週刊誌での連載となった『アドルフに告ぐ』は、「これは三人の アドルフと呼ばれた男たちの物語である」との一文に続き、1936年のベルリンオリンピックのシーンで始まった。ナチスドイツの大々的なプロパガンダの場となったこのオリンピックの様子を描くため、手塚はアシスタントたちと映画会社の試写室へ同大会の記録映画『民族の祭典』を観に行き、参考にしたという(※1)。