『鉄腕アトム』、『ジャングル大帝』、『リボンの騎士』……数々の名作を遺した“マンガの神様”手塚治虫。その手塚が「週刊文春」で連載した『アドルフに告ぐ』は第2次世界大戦前後の日本とドイツが舞台の大人向けのマンガだ。1983年~85年にわたって連載され、手塚の“最高傑作”と推す声もある。コミック累計450万部超えを記録する同作はいかに生み出されたのか?

 入社2年目で手塚治虫番になり、『アドルフに告ぐ』の連載を担当した文藝春秋の編集者・池田幹生に話を聞いた。(全3回の2回目/#1#3を読む)

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「おまえ、ちゃんと売らなきゃ坊主だぞ」

――『アドルフに告ぐ』の連載期間は、スタートしたときからあらかじめ決まってたんですか。

池田 一応、2年っていう話だったみたいです。でも、いつまで経っても終わる気配がないので「もうぼちぼち……」っていうことで、だから後半は結構急ぎ足になってるところがありますね。僕はもうそのころ、営業のほうに異動してたんで、現場がどうなってたかはあんまりくわしくは知らないんですけれども。

1928年生まれの手塚治虫。1989年に60歳で亡くなった(1970年撮影) ©文藝春秋

――池田さんが営業に異動されたのはいつぐらいですか。

池田 84年か85年ですね。手塚番になって2年が経ってました。だから、連載が(1985年5月30日号で)終わる半年前あたりで異動になったんじゃなかったかな。いきなり営業だって言われてずいぶんびっくりして。編集長の白石(勝氏)からは、最後まで面倒見てくれとか言われてたのに、何か納得いかねえなあって感じでしたね。いっときは白石に飲み屋で会うとずいぶん絡んだもんです。

――でも、営業で『アドルフに告ぐ』の単行本を担当されるんですよね?

池田 そうです。それはいまになってみると本当にラッキーだったと思います。連載の担当者が営業に行って、その本の担当になるということはまずないですから。(単行本の第1巻の)初版は2万部スタートだったと思います。最初、1万2千とか1万5千部ぐらいで始めようとしていたのを僕が「そんなんじゃ足りないから2万にしてくれ」って増やしてもらったんです。その代わり、おまえ、ちゃんと売らなきゃ坊主だぞって言われましたね。

なぜ単行本の表紙が手塚のマンガではないのか?

――単行本を見ると定価980円とありますけど、1985年当時のマンガの本としては結構高めですよね?

池田 高いですね。ただ、先生もマンガとして売りたくないっていうのがあって。先生は日本SF作家クラブにも入っていたのに、星新一さん、筒井康隆さん、小松左京さんの本とは書店で売り場が違って、自分だけが差別されてるっていう気持ちが強かったんでしょうね。だから装丁も、自分の絵を使うとマンガと同じところに置かれちゃうから、一般書のところに置かれるような本にしてほしいというリクエストが(編集部に)あったみたいです。それで装画はイラストレーターの横山明さんにお願いして、ハードカバーのああいう装丁になって。まあコミックの本を売るときのターニングポイントのひとつになったんじゃないかなと思いますね。先生も、ほかの小説の人と同じ平台に置かれているのを見て、すごくうれしそうにしてましたよ。

1985年に発売された単行本『アドルフに告ぐ』の第1巻

――先生本人は、文藝春秋はそれまでコミックを出したことがなくて、書店のコミックコーナーに置くノウハウがなかったから便宜上、ハードカバーになったんだみたいなことを書いていますが(『手塚治虫漫画全集 376 アドルフに告ぐ 5』所収「あとがきにかえて」講談社)。