幼いころからテレビの特撮番組やアニメに耽溺した庵野氏は、高校に入って8ミリの作品を作り始めた。特撮番組をパロディにした作品を作ったり、アニメを所属した美術部の予算で作り、文化祭で上映した。大学時代には様々な出会いの中で庵野氏の才が評判を呼び、次第に大きな現場に招かれていく。(全4回の2回目/3回目に続く)
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大阪芸大での出会い
―― 大阪芸大では同期で山賀博之さん(注1)と赤井孝美さん(注2)がいて、1年の時から一緒に映画を作り始めたのですか?
庵野 そうです。
―― 最初に作ったのはどんな作品でした?
庵野 大学で最初にやったのは『バス停にて…』ですかね。
―― アニメーションですか?
庵野 ペーパーアニメです。あの頃はペーパーアニメしかやってないですね。
―― それは個人の実習作品として提出したもの?
庵野 そうです。確か最初のFIRST PICTURES SHOWですね。3分間の短編のコンテストがあると聞いたので、それにちょっと描いてみようと。それだったと思います。次のタイヤのやつ(『じょうぶなタイヤ! SHADOタイヤ』)は、1年間の映像計画実習だったと思います。その中の短編ですね。グループに分かれて作品を作るというのが、映像計画実習の中身だったんですけど、他のグループは誰かが脚本を書いて、誰かが監督をやって、ひとつの映像作品を作ってた。でも僕のいたグループはやりたいものがみんなバラバラで、各個人で監督を持ち回りにして、短編CM集にしましょうと。
―― そういうことなんですね。
庵野 その人が監督をする時は他の人がみんなで手伝うというかたちにすると、誰もが公平に一度監督をやれるので、それにしませんかと。本当にまとまりがなかったので。CM集だけだとなんか面白くないので、CMだったら番組があったほうが面白いんじゃないかと思って、僕個人で学校のグループとは関係なく作ったのが『ウルトラマン』の短編ですね。