横浜ベイスターズで1998年のリーグ優勝と日本一に貢献。ロサンゼルス・ドジャースではクローザーとして地区優勝に貢献。NPBもMLBも知り尽くした名投手が“恩師”だという横浜ベイスターズ時代の監督とは——。
同氏によるによる野球論、ピッチング論、トレーニング論、コーチング論、ビジネス論をまとめた『37歳で日本人最速投手になれた理由~これからの日本野球~』(光文社新書)の一部を抜粋し、紹介する(全3回の3回目/最初から読む)
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権藤博という唯一無二の恩師
権藤博さんが監督として、1998年に横浜ベイスターズをリーグ優勝、そして日本一に導いてくれたことは、皆さんもご承知の通りだ。投手としても監督としても尊敬できる偉大な方だ。
権藤さんは、選手が「監督」と呼ぶことを拒み、「権藤さん」と呼ばせていた。監督でありながらコーチの役割も担っていた権藤さん。もし権藤さんとの出会いがなければ、今の自分はなかったかもしれないと思うほどのスーパーな方だ。
「一球の投げミスでプロは負けるんだぞ」
プロ入り後、何度もこんな言葉をコーチから聞かされたが、マウンドで何をすべきかをシンプルに教えてくれたのはただ一人、権藤さんだけだった。
その教えは実にシンプル。
「Kill or be Killed(やるかやられるか)」
「良い所に投げたって打たれることもあるし、真ん中に投げたって抑えられる時もあるだろう」
その後の野球人生で、これらの言葉にどれほど救われ、どれほど成長させてもらったことだろう。
中日ドラゴンズ入団1年目に「権藤、権藤、雨、権藤、雨、雨、権藤、雨、権藤」と言われるほど連投を重ねて35勝(19敗)を上げ、賞を総なめし(沢村賞、最多勝、新人王など)、2年目も最多勝(30勝17敗)を上げた権藤さんは、私には到底たどり着けない境地を知っていたはずだ。私のレベルが上がるにつれ、権藤さんの偉大さがジワジワ沁みて重みを増し、理解が深まっていった。
権藤さんの指導者としての優秀さはそれだけに留まらない。投手としてまだそれほど高いレベルにはない私にもわかりやすい、それでいてポジティブな言葉で指導してくれた。昭和の指導者には数少ないタイプだ。
余談だが、この頃から、周りの人がどう言おうとも、ポジティブな言葉を発するよう心がけるようになった。私生活においても同様だ。