NPBで二度の日本シリーズ優勝、MLBでは二度の地区優勝に貢献。45歳まで現役を続けた齋藤隆。息の長いプロ野球選手人生を送ったが、本人は自身のフィジカル面を「ひ弱」だったと形容する。だからこそ、トレーニングに意識的だったそうだが、その詳細はどのようなものだったのだろうか。
同氏の著書『37歳で日本人最速投手になれた理由~これからの日本野球~』(光文社新書)の一部を抜粋し、齋藤隆のトレーニング観を紹介する。(全3回の1回目/続きを読む)
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満身創痍…トレーナー南谷和樹さんとの出会い
私は肘の骨棘除去手術と軟骨形成手術を2回受けている。1回は切開し、もう1回は内視鏡で行った。肩の手術は、関節唇の一部をカットして仕上げにシェービングを行った1回。
それ以外に股関節の手術を1回の、計4回の手術をプロに入ってから行っている。このことからわかるように、私の身体は決して強くない。
1999年、横浜ベイスターズで先発として14勝3敗の成績を残した。先発としてのキャリアハイのシーズンだ。これは権藤博監督との出会いが大きかった。それまでの自分は10勝しても10敗する、貯金を作れない投手だった。そして、2001年と2002年の2年間、クローザーとして47セーブを挙げた。どちらもスキルが上がったことによる成績アップで、フィジカルはまだまだひ弱だった。
そんな私の身体を変えてくれた方との出会いが2000年にあった。大阪府堺市にある阪堺病院のリハビリ室の室長、すでに何度かご登場いただいた南谷和樹さんである。
南谷さんとのトレーニングは当時の最先端理論に基づき、大きな筋肉からインナーマッスルと言われる身体の深部にある筋肉にまでアプローチするため、時間がかかる根気のいるものだった。
そのトレーニングを、南谷さんは阪堺病院のリハビリ室で、一般の患者さんはもちろんのこと、アマチュアの野球選手やゴルファーなどにも指導していた。
トレーニングに関してとても理屈っぽい性格に加え、「何で?」がいつも先に立つ私に、南谷さんは常にロジカルに言語化して答えてくれた。
お酒好きのPT(理学療法士)南谷和樹さんこそが、私のフィジカルを鍛え、投手として覚醒させてくれた恩人である。