大阪SF大会のオープニングアニメを作る
―― その後にDAICON Ⅲ(注3)のオープニングアニメに誘われて参加するんですね。
庵野 高校の時の友達が先に京都の大学に行っていて、そこで、関西のSFファングループの人たちと知り合っていて。東京のイベントに参加した時、オープニングアニメを作っていたらしいんですけど、それに負けていられないので、関西もそういうのをやろうと。でも、自分たちでは作ったことがないので、自主制作の経験者はいないのかと探していた時に、僕が紹介されて。それで、面白そうだったので参加しました。自分からやりたいとかそういうのはなく、流されてやっていた感じです。
―― セルアニメですね。
庵野 セルアニメです。ちゃんとした映像にしたいということだったので、じゃあ紙ではなく、ちゃんとセルにしましょうと。そこはグループだったので、お金と機動力があったんですね。スタッフはみんなボランティアですけど、これならセルアニメもできるかなと。
―― やっぱりセルアニメは色を塗るのが大変だから、人数が必要ですね。
庵野 はい。あと、当時なのでゼロックスとかも持ってなく、トレーサーも要りますよね(注4)。セルも安くないので、3分とか5分のものを作ろうとすると、少なくとも何十万かお金がかかると思うので。
―― 自主映画としては大きい金額ですね。
庵野 大きいです。
―― 自主映画といえども、発注があって、スタッフもいてという体制で初めて作られたんですね。
庵野 そうです。ただ、誰が監督というわけでもなく、合議制みたいなかたちで作ってましたね、DAICON Ⅲのほうは。Ⅳのほうはもっとプロの作り方に近い感じになっていました。
―― そうですか。
庵野 自主アニメというよりは、ちゃんとした商業アニメの作り方を真似て、素人がやってるという感じですね。
―― DAICON Ⅲが81年で、Ⅳが83年だったと思うんですけど、その間に『愛國戰隊大日本』(注5)もあったりしたんですよね。
庵野 あれは、DAICON Ⅲのオープニングアニメがウケたので、みんな映像を作りたがっていたんですよね。あと、その時にもうDAICON Ⅳをやるというのは決めていたと思うので、スタッフの養成も含めて、自主制作の映画を何本か作って、それを次の東京のSF大会で上映することで宣伝にしたいという意図だったと思います。『大日本』や『帰ってきたウルトラマン』(注6)がそれですね。
―― DAICON Ⅲの時は制作に結構時間がかかったんですか?
庵野 かかっていると思います。3か月ぐらいかかったんじゃないですかね。ひと夏は丸々使っていたと思うので。