『鉄腕アトム』、『ジャングル大帝』、『リボンの騎士』……数々の名作を遺した“マンガの神様”手塚治虫。その手塚が「週刊文春」で連載をしていたことをご存知だろうか。『アドルフに告ぐ』――第2次世界大戦前後の日本とドイツが舞台の大人向けのマンガであり、手塚の“最高傑作”と推す声もある。1983年~85年にわたって連載され、コミック累計450万部超えを記録する同作はいかに生み出されたのか? そして“神様”を担当する苦労とは?

 入社2年目で手塚治虫番になり、『アドルフに告ぐ』の連載を担当した文藝春秋の編集者・池田幹生に話を聞いた。(全3回の1回目/#2#3に続く)

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「入社2年目で“神様”の担当になった」

――池田さんは、1982年に文藝春秋に入社して最初に配属されたのが『週刊文春』編集部だそうですね。

池田 そうです。編集部ではまず特集記事の担当で事件モノをやって、しごかれました。それを1年やって、2年目に手塚番になるんです。だから、『アドルフに告ぐ』の連載が(1983年1月6日号より)始まって4カ月か5カ月ぐらい経ってからですね。前任者がいて僕が2代目でした。

1928年生まれの手塚治虫。1989年に60歳で亡くなった ©文藝春秋

――連載が始まる経緯をご存じの範囲で教えてください。

池田 『週刊文春』編集長の白石(勝氏。のち文藝春秋社長・会長を歴任)のたっての希望で手塚さんに白羽の矢が立ったと聞いています。その前に赤塚不二夫さんの『ギャグゲリラ』がずっと続いていたんで、「そのあとのマンガはどうする?」って話になったときに、白石が手塚さんに頼んだらどうかと提案したそうです。

 文藝春秋は昔、『漫画読本』ってマンガ雑誌を出していて、手塚先生もそこで描いてました。そんな経緯もあって文藝春秋漫画賞も受賞してます(1975年に『ブッダ』と『動物つれづれ草』で受賞)。だから、近しい空気を白石は持っていたんじゃないでしょうか。それに一般週刊誌だと、潤沢に誌面を割り振るわけにはいかない。普通、マンガ連載というのは16とか24とか8ページ単位で構築するのに、10ページという不規則なページ数になってしまう。「それでも毎週まとめてくれる人は誰だろう」って考えたんじゃないですかね。

『アドルフに告ぐ』連載、初回は『週刊文春』1983年1月6日号に掲載された

ヒトラーにユダヤの血が流れている?

――スタイルとしてはシリアスな大河ドラマで、昭和史がテーマになったわけですけど、これは手塚先生か編集部か、どちらからの提案だったんですか。

池田 このへんは又聞きなんですけど、当時、集英社から「ヒトラーにユダヤの血が流れてる」っていうノンフィクションの本が出たばかりで、それを見た編集部サイドの人間が、これをネタにやりませんかと言ったんじゃないかと思います。先生は初め、どっちかというと1話完結の連載物みたいなのを考えていたらしいんです。タクシー運転手が主人公のマンガがあったと思うんですが(『週刊少年チャンピオン』連載の『ミッドナイト』)、そんなような話でどうだろうって言ったときに、編集部側から提案され、そこから3人のアドルフの物語という形がだんだんできていった……と聞いた記憶がありますね。先生としても『週刊文春』でやる以上は、少年誌ではやれない大人向けのものをちゃんとやりたいという気持ちは強かったようです。