今や世界的なスター選手となった、ドジャースの大谷翔平。そんな大谷と一対一で向き合い、取材を続けているのが、ベースボールジャーナリストの石田雄太氏だ。大谷は石田氏の取材に対して、どんな言葉を紡ぎ、どんな思いを語っているのか。
ここでは、石田氏の著書『大谷翔平 野球翔年 I 日本編2013‐2018』(文春文庫)より一部を抜粋して紹介。少年時代の大谷翔平がバッティングのマネをしていた、意外な選手とは?(全2回の2回目/初めから読む)
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最後のチャンスで「全国」という大海へ泳ぎ出た、中学生の大谷
低学年のバンディッツから、高学年のパイレーツに入って、さっそく試合に出た。6年生のときには、岩手県で大谷のボールを打てるリトルの選手はいなかったのだという。
バッターとしてもホームランを量産。県大会のホームランダービーでは、各チームで4番を打つ中学1年の選手たちが力んで、15スイング中3本が最高だという中、6年生で11本のホームランを打ってみせた。試合でも、大谷が打席に入ると外野手だけでなく、内野手も下がって守った。大谷の打球が強すぎて、危険だったからだ。
水沢リトルは、大谷が5年生のときに東北大会へ初出場。準決勝まで進んだものの、あと一歩で2チームに与えられる全国大会への切符を逃した。そして、6年生のときにはベスト4で敗れてしまう。リトルリーグの試合に出られるのは12歳までなのだが、大谷は中学1年まで試合に出ることができた。
その最後のチャンスで、水沢リトルはついに東北大会を勝ち上がり、全国大会への出場権を勝ち取る。大谷は水沢から岩手へ、岩手から東北へ、そして全国という大海へ、初めて泳ぎ出たのである。
「やっぱり僕はたいしたことないんじゃないかなと」
「全国へ出るという目標をもって練習してきて、それを達成したときは今までで一番と言っていいくらい嬉しかった。5年生、6年生のときにはすごく悔しい思いをして、そういう悔しい経験がないと嬉しい思いもできないんだということを知ることができました。
ただ、全国大会には出ましたけど、千葉のチームに1回戦で負けましたし、相手のピッチャーが僕よりもいい球を投げていて、相手の4番バッターが僕よりもいい打球を打っていた。その1回戦で負けた相手が次の試合であっさり負けて……そういう現実を見せつけられたら、やっぱり僕はたいしたことないんじゃないかなと思いました。
僕はしょせん、狭い範囲で野球やっているんだな、岩手では大谷、大谷と言われても、そんなの、それこそ小さな枠組みの中の話で、全国にはもっともっと上がいるんだなと思い知らされました」