75年前の夏は、特別な夏だった。戦争が終わりに近づき、蒸気機関車が噴煙を上げて走る鉄道はB29の格好のターゲット。たびたび空襲の的となって我が国の鉄道網は文字通りズタボロになっていた。それでも、空襲の間隙を縫いつつ列車は走り、軍事輸送と通勤通学輸送、そして疎開輸送などを担っていた。もちろん、気軽な鉄道旅行などまったくままならない時代である。

 いったい、戦時中の鉄道はどのようなものだったのだろうか。人々の鉄道旅行はいつ頃から窮屈なものになっていったのか。そして戦火の中で鉄道マンたちはいかにして鉄道を走らせていたのだろうか。いくつかの資料や書籍をもとに、探ってみることにしよう。

戦後の東京、戦争で被害を受けたレースを敷き直す作業員(1947年撮影) ©AFLO

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「享楽旅行は国民の敵」

 戦争が始まる少し前、1930年代はいわば“鉄道黄金時代”というべき時代であった。国鉄の主な路線はもとより、現在の大手私鉄の主要路線もほとんどが整い、さらに電化路線も増えて通勤通学から長距離輸送まで幅広く鉄道が活躍。特急列車に「富士」「桜」「燕」「鴎」といった愛称が与えられたのもこの頃のことだ。

 しかし、1937年に日中戦争が勃発すると少しずつ情勢が変わってゆく。1938年には団体客の割引が廃止され、1939年以降は混雑緩和を名目に乗車制限もされるようになっている。この頃、駅のホームには「享楽旅行は国民の敵」といった文句が掲げられていたという。ただ、その当時はアメリカとの戦争も始まっておらず、むしろ国民は帝国の進撃を誇りに感じつつ戦争景気に沸いていた頃合いである。だから「享楽旅行は国民の敵」などと言われても素直に応じることはなかったようだ。神社仏閣巡りという大義名分をもってむしろ盛んに行われていた。まあつまり、「日の丸を掲げて国への忠義を誓えばあとは自由でいいじゃないの」というわけだ。特にこの頃に賑わっていたのは温泉地だったという。

「決戦旅行体制強調運動」のポスター。「行楽旅行や不急の旅行を見合せませう」の文言がある

食堂車がやっぱり復活した“微妙な理由”

 そうは言っても、徐々に戦争が泥沼化していくにつれてそうもいかなくなってくる。1940年の末には国鉄に対して食堂車の廃止を通告した。