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 作中で太宰は「十七時三十分上野発の急行列車に乗った」と書いている。この年の4月からは100km以上の旅行には警察官や統制団体の発行する証明書が必要となり、不要不急の旅行はほとんど不可能になっていた。ただ、そうした中でも出版社からの依頼による“仕事”とはいえ、太宰の旅には証明書が発行されたということなのだろう。

1944年5、6月に取材。11月に小山書店から刊行された太宰治『津軽』。写真は新潮文庫版

 1944年頃、都市部は食糧不足に陥っていた。太宰も『津軽』の中で次のように書いている。

<東京の人の中には、意地も張りも無く、地方へ行って、自分たちはいまほとんど餓死せんばかりの状態なのです、とひどく大げさに窮状を訴え、(中略)わけていただけませんでしょうかしら、などと満面に卑屈の笑いを浮べて嘆願する人がたまにあるとかいう噂を聞いた。東京の人みなが、確実に同量の食料の配給を受けている筈である。その人ひとりが、特別に餓死せんばかりの状態なのは奇怪である。>

「空襲警報のたび駅の地下道にかけこんだ」

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 ずいぶんと手厳しいが、それでいて太宰自身は「私は津軽へ、食べものをあさりに来たのではない」と宣言しているからさすがである。いずれにしてもこの頃の食糧事情は深刻で、食料を求めて汽車に乗り、地方に赴く人も多かったようだ。さらに1944年の後半からは本格的に空襲もはじまる。先の『鉄道弘済会三十年史』には、大阪駅構内の売店で働いていた女性の談として次の一節がある。

戦時中の鉄道で弁当を売る売り子 ©getty

<フスマやヌカを入れた黒色の代用パンを販売したが、これも買う人が行列でひしめいた。なかには一食してまずいと、文句も言わず捨てる人もあつたが、それをまた拾つて喰べる人もあつた。空襲もひんぱんとなり、警報のたびに売上金を身につけて店の戸を閉め、駅の地下道にかけこんだ。そして解除となると、走りでてまた開店するという忙しさを、何回もくりかえすのが日課となつていた>