8月15日、玉音放送が流れていたときも走り続けていた
8月15日の終戦の日、その日も鉄道は変わらずに動いていた。いや、変わらずに、というのは語弊がある。かろうじて動いていたというのが正しいところだろう。国鉄の被害状況は総延長の約5%にあたる1600km、駅舎は198、機関車891両、電車563両、客車2228両、貨車9557両。そうした状況の中でも、撃たれては復旧させてを繰り返してなんとか鉄道は走り続けていた。8月15日正午、玉音放送が流れていたときも走り続けていた。前出の『SL機関士の太平洋戦争』には、常磐線で乗務中、途中の原ノ町駅で玉音放送があることを聞いた機関士の証言が載っている。ただ、列車を停めるわけにもいかずにそのまま運転を続け、終点の平駅(現・いわき駅)で終戦を知ったという。
また、『鉄道ジャーナル』の1995年9月号には『日本国有鉄道百年史』の編纂に関わった原田勝正氏による記事があるが、そこには終戦を経験している国鉄職員に聞いて回ったところ、ほとんどの職員が玉音放送を聴いていないと答えたとある。みな、「あたりまえの日常の仕事をしていたのだ――という態度であった」という。そして終戦翌日の1945年8月16日も、線路や車両が許す限りという条件付きではあるが、通常どおりに列車は走っていたのである――。
どんな状況の中でも、可能な限り鉄道は走り続けた。人々も本当にそれが許されない状況になるまでは旅を続けた。それはある種、“日常”を守る戦いだったのかもしれない。