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 東京から大阪まで10時間以上もかかっていた時代、列車内の食堂車がなければ食事が取れぬ。国鉄も食堂車廃止に抵抗したが、軍部に押し切られてしまう。ところが、まだ話に続きがあったようだ。駅構内の売店などを運営していた鉄道弘済会の『鉄道弘済会三十年史』にその顛末が次のように書かれている。

<ところが廃止した直後から、軍・財界・高級官吏の一群から復活の要求が殺到した。やめろと云った陸軍まで、やはり無くては不便だというのである。阿部(※筆者注:当時の国鉄旅客課長)は、今度は強硬にはねつけたが、閣議にまで復活が持ち出されて、軍がこれを支持したのでとうとう復活した。非常時型の人々は、自分達だけが不便したくなかったのだということが、これでよく判った。>

 つまり、食堂車などという贅沢は許されぬと怒ってみたはいいものの、自分が列車に乗ったら腹が空いて困ったから復活させろ、というわけだ。非常時に際してずいぶん一貫性がない政府だと思う。

 結局、最終的に食堂車が廃止されたのは戦争末期の1944年4月。決戦非常措置要綱に基づくもので、同時に1等車や寝台車も廃止されている。

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戦時中の交通道徳ポスター。「傷疾軍人に席をゆづりませう」の文言がある

「女子職員も15歳未満も」積極採用

 1941年12月の日米開戦以降は、通常の鉄道旅行への制限がいっそう厳しくなってゆく。軍事上必要な貨物輸送の需要が急速に伸び、さらに軍需工場への通勤輸送などを確保することが最優先。むしろ鉄道は(運輸)鉄道省の傘下で戦時輸送を担う中核とされ、そうした中では享楽旅行などまさに不要不急の存在であった。さらに、1943年9月に閣議決定された国内必勝勤労対策により、車掌や出改札(つまり駅員さん)業務への17歳以上の男子の就労が禁止される。軍隊への招集が優先されたわけだ。そこで代わりに女子職員の採用が進む。1943年度初頭は1万8000人程度だった国鉄の女子職員は、1945年度初頭には11万人近くにまで増えている。加えて蒸気機関車の機関士といった“花形”職種についても人員不足から15歳にも満たない少年に訓練を施すといった有様だった。

女性の赤帽(乗降客の手荷物を運ぶ人)。下関駅で1943年撮影
女子保線作業員(1945年ころ撮影)

「私は食べものをあさりに来たのではない」なぜ太宰治は旅できた?

 まさにギリギリのところでこらえつつ列車を走らせているという状況。しかし、それでも旅行が完全に許されないものになっていたわけではない。作家の太宰治が『津軽』を著すために故郷の津軽地方を旅したのは1944年5月から6月にかけてのこと。