他にも駅そばを売り続けるために新潟から連日埼玉にそば粉の買い出しに行ったり、南京豆の仕入れのために広島から千葉まで満員の列車に揺られたり、といったエピソードもある。とにかく鉄道の輸送そのものもそうだが、駅売店も艱難辛苦の努力の上でかろうじて維持されていたのだ。
「機関士が機銃掃射を受けて、運転台に座ったまま死んでいた」
1945年にはいって米軍の空襲が激しくなると、さすがに太宰のような旅もできなくなっていく。何しろ、軍事物資を満載して走る鉄道そのものが米軍の攻撃の標的なのだ。戦時中のSL機関士たちの証言をまとめた『SL機関士の太平洋戦争』(椎橋俊之著)には、「交代したばかりの機関士が突然機銃掃射を受けて、運転台に座ったまま死んでいた」「蒸気機関車の騒音が大きいので飛行機のエンジン音が聞こえない、撃たれて初めて分かる」「トンネルを出たら上空をグラマンが飛び交って居るのが見えて、バック運転でトンネルまで戻った」といった過酷な業務の様子が綴られている。空襲被害が最も多かったのは東海道本線で172回。ついで鹿児島本線88回、中央本線81回、東北本線72回。米軍の攻撃によって運転見合わせとなった時間は、実に7410時間にも及んだという。
そして1945年8月。終戦の月の最初の日には、鉄道義勇戦闘隊が編成され、梅津美治郎参謀総長観閲のもとで最初で最後の閲兵式が行われている。これは本土決戦に備える国民義勇隊のひとつだったが、鉄砲ひとつも持たされず、つまりは空襲やらで鉄道職員が殉職した際に靖国に祀られる、という程度のものだったという。もちろん鉄道義勇戦闘隊が現実の戦いに臨むことはなかった。
原爆投下「車内を見ると死んだ人」
8月6日には広島、9日には長崎に原爆投下。『広鉄運転80年のあゆみ』(日本鉄道運転協会発行)には広島駅で働いていた女子職員の手記がある。その一部を引用しよう。
<非番の引き継ぎを終え、帰りの列車を待っておりました。そこへあの恐ろしい原爆です。(中略)下り線の枕木が重ねてある陰にかくれました。何事もないらしいのでホームに出ると、誰ともなくスコップを持ってホームの砂の所を掘り始めました。穴です。(中略)下り列車が入ってきました。車内を見て回ると死んだ人もいれば、今にも息絶える人もいるという状態です>