乗員乗客107人の死者を出した、JR史上最悪の惨事・福知山線脱線事故から20年。脱線・転覆の10秒間に、いったい何が起きていたのか。生死を分けたものは何だったのか。重傷を負った生存者にふりかかった様々な苦悩と、再生への歩みとは——。
ここでは、遺族、重傷を負った被害者たち、医療従事者、企業の対応など、多角的な取材を重ねてきたノンフィクション作家・柳田邦男氏の著書『それでも人生にYesと言うために JR福知山線事故の真因と被害者の20年』(文藝春秋)より一部を抜粋。1両目に乗っていた大学生(当時18歳)の証言を紹介する。(全4回の3回目/4回目に続く)
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新入生の18歳、元ラグビー部の若者の不運な偶然
近畿大学法学部に入学したばかりの18歳・山下亮輔は、その日の朝、伊丹市内の自宅を愛犬ゆずに玄関先まで送られて、自転車で出た。前夜は大学の新入生歓迎コンパで未明まで騒いでしまったが、朝になれば、もう気持ちはすっきりしていた。
黒のストライプの長袖シャツに青いジーパン、そして茶色のブーツ。青春真只中の若者が新緑の並木の下を颯爽と自転車を漕ぐ姿は、晴れて大学生になった解放感と自信満々の気持ちをストレートに表していた。
JR伊丹駅近くの駐輪場に自転車を置くと、駅に通じる歩道橋を駆け上がった。階段を駆け上がるなどということは、高校時代にラグビー部だった亮輔には日常茶飯事で、まるで気にとめるようなことではなかった。
そんなことでさえ二度とできなくなるとんでもない出来事が身に振りかかってくる時刻が近づきつつあったと、誰が想像できようか。単に階段を駆け上がることができなくなるというのは象徴的なことであって、実は亮輔のそれまでの人生が切断されてしまうほどの事件に遭遇するのだ。
近畿大学に行くには、伊丹駅からJR福知山線で大阪駅に出て、近鉄大阪線に乗り換え、大学のある長瀬駅で降りるというコースになる。伊丹駅から約40分だ。
歩道橋から伊丹駅に飛び込んだ亮輔は、改札口を入ると、いつもはエスカレーターで降りるのだが、この日は、なぜか反対側の階段でホームの前寄りの方へ降りた。ちょっとした偶然が運命のベクトルを不運な方向へ向けてしまう。なぜそちらを選んだのか、亮輔自身にもわからない。