約40年前に発生した、日本の民間航空史上最悪の事故「日航ジャンボ機墜落事故」。1985年8月12日午後6時56分過ぎ、日航123便は乗客乗員524人を乗せ、群馬県上野村の御巣鷹の尾根に墜落した。520人が死亡し、助かったのは女性4人だけだった。

 墜落事故当時、日航の技術担当の取締役だったのが、松尾芳郎氏だ。松尾氏は事故原因とその背景について知る第1人者で、墜落事故後、群馬県警の厳しい取り調べを受け、業務上過失致死傷容疑で書類送検されている(結果は不起訴)。

 松尾氏は、群馬県警の取り調べの内容やその実態、墜落事故の関係資料をファイルにまとめていた。そのファイルを引き継いだのが、ジャーナリスト・木村良一氏だ。

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 ここでは、木村氏が、松尾氏のファイルをもとに取材を重ね、事故の真相に迫った書籍『日航・松尾ファイル-日本航空はジャンボ機墜落事故の加害者なのか-』(徳間書店)より一部を抜粋。生存者の4人は、事故後にどのような証言をしていたのだろうか?(全2回の1回目/前編を読む)

焼け焦げた JAL のマークの入った主翼が痛々しい=1985年8月13日、群馬県上野村の御巣鷹の尾根(写真提供・産経新聞)

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生存者の落合さんと職員との「1問1答」

 8月16日の夕方、日航アシスタント・パーサーの落合由美(生存者のひとり)は報道陣のインタビューにも応じている。ただし、落合本人が直接答えたのではなく、報道陣に代わって入院先の多野総合病院(現・公立藤岡総合病院)の職員が質問してそれに落合が回答したものだった。報道各社に公開された、落合と職員との「1問1答」の録音内容のなかから主なものを拾ってみよう。

――いまの体調や気分はどうですか?

「気分はいいです。ただ腰がちょっと痛い」

――異常が起きたときに機内で絶叫や悲鳴はありましたか?

「はい、ありました。子供たちは『お母さん』と言ってましたし、パニックでしたので『キャー』という悲鳴ばかりです」

――急降下のとき、飛ばされたり、手荷物が吹き飛んだりしましたか?

「衝突防止姿勢で自分の足首をつかんで頭を両ひざの間に入れていましたから。下を向いていたので、周りの状況はよく分からないんですけど、みんなその格好でいたようです」

――墜落したとき、どんな気持ちでしたか?

「助からなければいけないと思いましたけど、体が動かなくてどうしていいか分からないという状態でした」

――なぜ助かったと思いますか?

「分かりません」

――墜落後、眠り込むまでどんな気持ちでしたか?

「口の中に砂が入ってくるので息苦しくなるから、自分の顔をちょっとでもそういうことのない方向に動かすのに精一杯でした。あとはノドがかわいて。ヘリコプターの音がしてずっと手を振っていたのですけど。気が付いてもらえなかったのか、ここまで来ることができないのか、と思いました」

――翌朝、救急隊員に起こされたときの気持ちはどうでしたか?

「『大丈夫だぞ』というふうに叫んで下さったんですけど、もう体が痛くて本当にこのままどうなるんだろうか、まだはっきり自分では分からない状態でした」