約40年前に発生した、日本の民間航空史上最悪の事故「日航ジャンボ機墜落事故」。1985年8月12日午後6時56分過ぎ、日航123便は乗客乗員524人を乗せ、群馬県上野村の御巣鷹の尾根に墜落した。520人が死亡し、助かったのは女性4人だけだった。

 墜落事故当時、日航の技術担当の取締役だったのが、松尾芳郎氏だ。松尾氏は事故原因とその背景について知る第1人者で、墜落事故後、群馬県警の厳しい取り調べを受け、業務上過失致死傷容疑で書類送検されている(結果は不起訴)。

 松尾氏は、群馬県警の取り調べの内容やその実態、墜落事故の関係資料をファイルにまとめていた。そのファイルを引き継いだのが、ジャーナリスト・木村良一氏だ。

ADVERTISEMENT

 ここでは、木村氏が、松尾氏のファイルをもとに取材を重ね、事故の真相に迫った書籍『日航・松尾ファイル-日本航空はジャンボ機墜落事故の加害者なのか-』(徳間書店)より一部を抜粋。墜落事故の翌日に判明した、現場の凄惨な状況とは――。(全2回の1回目/2回目に続く)

墜落現場は11時間たってもくすぶり続けた =1985年8月13日午前5時40分、群馬県上野村の御巣鷹の尾根(写真提供・産経新聞)

◆◆◆

航空史上最大の死者を出した事故

 墜落事故の翌日、松尾芳郎は藤岡公民館に設置された現地対策本部で遺族の対応に追われた。午後1時40分ごろには、社長の高木養根も到着した。1遺族に最低1人の世話人を付ける必要があった。藤岡市には400人を超える日航社員が派遣された。だが、520人という航空史上最大の死者を出した事故である。仕事は山ほどあり、社員の数は足りなかった。日本航空の全国の支社支店から派遣要員が次々とかき集められた。

 派遣された社員の人数は、その後のピーク時で1100人にもなった。日航が8月中に用意した車の借り上げ延べ台数もタクシー3600台、ハイヤー3200台、バス250台、トラック85台、遺体用の寝台車50台と多かった。

灼熱の暑さの中での対応

 外は灼熱の暑さだった。湿度も高い。日航の社員はみな黒や紺、グレーのスーツ姿で、しかも男性はネクタイを締めていた。日なたに立っているだけで、汗が噴き出してくる。藤岡公民館のエアコンや扇風機はフル回転したが、それも限界がある。熱射病や日射病で体調を崩す社員も出た。いまの言葉でいえば、熱中症である。

 現地対策本部の周囲はパトカーや消防車両、霊柩車、マスコミの取材車、ハイヤー、タクシーでごった返していた。ヘリコプターで墜落現場から運ばれてくる遺体は藤岡市立第一小学校の校庭に運ばれた後、藤岡市民体育館や周辺の学校の体育館に安置された。