東京・新宿の「トー横」や大阪・「グリ下」に集まる少女らの売春が社会問題になっている。親の暴力や虐待から逃れ、居場所を求めたすえ、ホストクラブへの支払いや食費・宿泊費のために体を売るのだという。

 いまから80年近く前、敗戦後の荒廃して貧しい時代に、同じように売春をして暮らしていた女性たちがいた。彼女らは総称して「パンパン」と呼ばれた。彼女たちがそんな境遇になったのにはさまざまな要因があったが、多くは戦争によって人生を狂わされた人たち。その姿は国そのものを象徴していたように思える。時代の中での彼女たちの存在はどんな意味を持っていたのだろう。

「有楽町ガード下の『夜の女』」とされる戦後史の代表的な写真(『歴史読本』より)

 当時の新聞記事は見出しはそのまま、本文は適宜書き換え、要約する。文中いまは使われない差別語、不快用語が登場するほか、敬称は省略する。(全3回の1回目/続きを読む)

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「パンパン」を取り上げた新聞記事は少ない。それは多くの日本人にとって彼女たちが“恥ずべき存在”で、できれば隠したいと思われていたことと無縁ではないだろう。それでなくても、戦後間もないころの新聞は全紙朝刊のみで原則2ページ建てでスペースが少なかった。

 “事件”が起きたのは敗戦から約1年8カ月後の1947(昭和22)年4月22日。だが、新聞には載っていない。それはNHKの『街頭録音 ガード下の娘たち』というラジオ放送だった。大島幸夫「こんな女に誰がした―星の流れの怨歌」=『人間記録 戦後民衆史』(1976年)所収=に復刻した放送内容が載っている。

通りがかりの酔った客を伴って消えていく「闇の女たち」

 私は今、省線(国電=現JR)有楽町北口のガード下、墨を溶かしたような闇の中に雨に打たれてただ一人、じっと立っております。時間は既に8時すぎ。電灯のつかないこのガード下、トンネルのような感じでありまして、わずかに向こう側のビルの灯が黒々と私の影を落としております。街頭録音班初の夜間録音は華やかな街の灯を避けて、大東京の裏通り、闇に咲く花の生態をひそかに録音するために、私は小型マイクをオーバーの内側に忍ばせまして、先ほどからここに人を待っているわけであります。

 

 このガード下の暗闇に妖しい花を咲かせる街の天使たち、厚化粧にけばけばしい洋服の娘たちは、宵闇の迫るころ、どこからともなく2人、3人と現れて、通りがかりの酔客を伴っては、また闇の中に消えていきます。今もここに4人……5人……、厚化粧の天使たちがガード下を行ったり来たりいたしております。

戦後の有楽町ガード下はさまざまに描かれた(「旬報ニュース」より)

 声の主は、のちに人気クイズ番組『二十の扉』や紅白歌合戦の司会も務めた“花形”アナウンサーの藤倉修一だった。4月8日の午後8時ごろだったという。同書に基づいて女たちとのやりとりを記す。