人気者扱いされるようになったお時は…「そっとしておいてほしい」

「再び全国に大きな反響を呼び、聴取者からの彼女への激励の手紙が相次ぎ、中には真面目に結婚を申し込んでくる人さえあった。お時さんの話はアメリカまで伝わり、1948年2月10日のニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙にも『闇の女ラジオで更生』という見出しで大きく報道されていた。それからのお時さんは人気者扱いされ、新聞や雑誌がうるさく付きまとい、かえって彼女を苦しめるようになった」と『マイク交遊録』は述べる。

 1948年2月9日付朝日はそのころのお時を「更生後日物語」の見出しで取り上げている。

「放送以来、騒がれて、市川あたりでは、道を歩いてるとゾロゾロ子どもや大人が付いてくるの。このごろはマスクして眼鏡をかけて歩いてんのヨ。勤め先は今、原料難で休んでいて苦しいけど、意地でもラク町へ戻ることはできないわ。同情してくださる世間の人に対しても、私自身にとっても……」

お時の更生が記事になった(朝日)

「週刊朝日」2月22日号のインタビューでも「ソッとしといてもらいたいの」と訴えている。

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「そっとしてほしい」とお時は訴えた(「週刊朝日」より)

「實話と讀物」1948年3月号の「探訪・ラク町のお時後日物語」によれば、本人の話したところは概略次のようだ。

〈東京・本郷の生まれで父は職人。実母は8歳の時に亡くなった。戦争末期は飯田橋の女子商業学校の生徒だったが、空襲で家が焼かれ、父や継母、妹たちとはぐれてしまった。女子挺身隊として工場で働きながら家族を探したが、終戦で工場は閉鎖。人の世話でミカンやタバコを露店でヤミ売りして生活した。もうけがあった日はドヤ(宿屋)に泊まったが、商売がうまくいかない時は上野の地下道か日劇の地下で夜を明かした。

 

 日劇の地下には娘たちが集まるようになり、日劇の支配人が追い出しをためらっていると聞いて「いったん外へ出よう」と呼び掛けたが、反対した年上の女とくんずほぐれつの取っ組み合いに。お時が勝ち、それから娘たちの人気がお時に集まるようになった。その日からお時は「ラク町」の娘たちの群れへ入った。毎日必ず4~5人は警察へ連れて行かれるのをもらい下げに行ったり、差し入れをしたり、病院に入る娘の面倒を見たりしているうちに「姉さん、姉さん」と呼ばれるようになった。〉

雑誌もお時のその後を追った(「実話と読物」より

 一方で、お時の冷酷さとすごみを示すエピソードもある。田中貴美子『女の防波堤』(1957年)は、お時が手下の女たちに命じて焼け火箸を“シマ荒らし”の女の股の間に当てさせる、生々しいリンチのシーンを書き留めている。

次の記事に続く 「赤黒い舌をペロペロさせながら…」「おなかがうづく、23人もの相手を」戦後日本につくられた“世界最大の売春トラスト”の恐るべき実態

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